カテゴリー「心と体」の97件の記事

2012年9月23日 (日)

魔法少女まどか☆マギカ

 TVスポットを見て、「これはただもんじゃねえ」と思って、即BD全巻をアマゾンで購入した。そういう時の自分の直感には(根拠のない)自信がある。視聴後に、放映されている時すでに大反響を生んでいた作品だとネット記事で知って、非常に納得した。

 うつ病、不登校、減らない自殺者数等、心の病にどのように対処するかは、個人のレベルを超えた国全体の問題だろう。国民一人ひとりの幸福となどいったきれいごとはともかく、経済的な面においても単に一人ひとりが元気になるだけで、生産性も消費意欲もアップするだろうから。

 ところが、心の問題に対しては一切のきれいごとが通用しない。心の病の最も特徴的な一面は、「何をやっても改善されない」という点にこそある。思うに、原因と結果の関係が必ずしも一致していなくても、それを多くの人が信じれば「真実」として通用する。例えば、特定の刺激に対する反応結果が、実はその「刺激」が反応結果の直接的な原因でなくても、それがある程度の脈絡を持っており、それを多数の人々が認めれば、「真実」として定着する。

 ところが「心の問題」には、一切の擬似的な真実は効力を持たない。やさしさも真心も、悩める人物には通用しない。しかし、これはある面チャンスでもあって、生半可な常識が通用しないからこそ、本物の真実を追究せざるを得なくなる。「心とは何だろう」と、悩める人物も、悩める人物を支えようとする人物も、考えざるを得なくなる。

 カウンセリングの本質は、癒しではない。人の「悩み」は時として悩む本人にもその原因がわかっていない。無意識下で暴れる悩みの根っこを意識化し、それぞれがコントロール可能な状態にする。一人ひとりのその作業を手助けするのがカウンセラーの役割である。
 で、「魔法少女まどか☆マギカ」は、作品自体がそのような力を持っているのではないかとさえ思うのだ。これが単に商業目的で作られた作品とはとても信じられない。

 希望と絶望は確かに等価だ。それを意識化したところから何ができるかを考えることは、今の我々に必要なことだと実際思う。

追記
 
 ちょいとショッキングなシーンもあるので、お勧めはしませんがお勧めしますという、謎の推薦文を最後につけておきます^^;
 ただ、そういうシーンは、生半可な方法ではメッセージが届かない人たち(俺も人のことは言えないが…)に思いを届かせるための方策なのではないかと思うこともありますが。

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2012年2月15日 (水)

 何となく思い出したことがあるので書いてみる。
 多分雨が降っているからだろう。
 自己カウンセリング系の話なので、つまり極めて個人的な話なので、そういうのが苦手な人は読まない方が良い。

 十代の終わり頃に右のまぶたの手術をした。前にも書いたが私は生まれつき右目が眼瞼下垂だった。右目だけまぶたの筋肉がほとんど動かず、半分片目を閉じたままで生活していた。
 それを小学校に上がる前に手術してまぶたを切ったが、治った後手術跡が盛り上がったようになっていた。そのまま少年期から青春期の大半を過ごした。女の子が自分の右に座っただけで緊張するぐらいだったから、少なからず私の人格に影響を与えていたのは確かだ。
 
 大学一年の時に大学病院に三週間ほど入院して再手術をした。軽度の障害ということで保険が下り、三週間飯付きで4万円ちょっとですんだ。
 局所麻酔だったので、手術そのものがなかなか強烈な体験だったが、ここでは細かい描写はやめておく。親知らずを抜いたことがある人は大体どんな感じか想像つくだろう。

 手術が終わって二日後ぐらいだったが、執刀医だった大学の先生から術後の検査を受けたとき、「うん、よし、これでいい。そろそろ鏡を見てもいいよ。」と言われた。それで病室に戻ってから、恐る恐るガーゼをはがして自分の新しい顔を見てみた。

 これはかなりこたえた。皮膚にメスを入れているわけだからそれは傷を受けたに等しいわけだ。しかも、手術中眼球を守るためだったのだろうが、目に直接何かが押しつけられていて、眼球全体が内出血したように真っ赤に染まっていた。タコの目というものがどんなものか絵に描けと言われてもそらでは描けないが、その時の私はなぜか「タコの目」という表現を思い浮かべていた。
 病室に戻ると、外は雨だった。取り返しのつかないことをしたと、自分を責めた。なぜ前の顔を捨てたのか、なぜわざわざこんな顔を手に入れようなどと思ったのか。

 私はそれからしばらく鏡を見ようとしなかった。一週間ぐらいたって、また先生の部屋に行き検査してもらった。ガーゼを取って部屋の中を移動している時に、奥にあった鏡に自分の姿がちらっと映った。見たことのない人物がそこにいた。右目と左目が左右対称の。眉毛を大きくつり上げなくても、目が開いている。またちらりと見た。見間違いではなかった。

 別になにかの教訓話として書いたわけではない。ふと思い出して、書いてみたくなったから、書いてみた。一度言葉にしておきたかったのだと思う。本当に雨のせいかもしれないが。

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2012年2月12日 (日)

「ドラゴン・タトゥーの女」

(ネタバレ注意。これから観る予定の方は読まない方がいいですよ^^;)

 過激すぎる内容の作品について記事を書くのはいつも気が引けてしまう。別に過激すぎる作品ばかりを選んで観ている訳ではないと納得して、これを書き始める。
 しかし思うに、ツイッターなどネットを伝わる情報は、ネガティブな内容のものほど伝播力が強い。だから本当に伝えたいメッセージを含んだ作品は、時として毒と棘とを身にまとった過激な姿を見せる。そのような見かけを持つ情報の力を、クリエイターが計算しているのではないかとさえ思う。

 現代社会を生きる者は、個性と独自性とを手に入れた結果として、他者の内面が見えにくくなった。皆が「普通さ」の中にどっぷりつかって生きていた時代であれば、以心伝心、互いの内面は自分の内面を知りさえすれば自然に理解できた。
 しかし、インターネットに象徴される現代文化は、個々人にかつてない独自性と能力とを与えた。その結果として人は一人ひとり、一人で生きる能力を手に入れたが、当然の結果として一人ひとり孤独になった。この辺あたりは、国語の教科書にも教材として採用されている山崎正和さんの「新しい個人主義の誕生」でも説明されていることだ。
 既に後戻りはできない。個性と独自性とを手に入れた現代人は、ようやく獲得した「自由」を捨てることなどできない。だとすれば、一人ひとりが自らの個性を活かし、能力を発揮して、既成の価値に頼らない、新しい人と人との関係を築くしかない。

 「ドラゴン・タトゥーの女」のリスベットは、まさに袋小路に追い詰められた現代人そのものだ。彼女の周囲は彼女を傷つける「異常な人々」で溢れる。これは、個性と独自性を獲得した結果として、一人ひとり他者が異質な存在になってしまったことの極端なデフォルメと読み取ることもできる。そのような「異質な他者」に対してリスベットは、自分の能力を極限にまで尖らせることで、自分という存在を保とうとする。
 この作品がここまでの内容であったなら、単なる絶望的、悲観的な物語ということになるが、話はこの主人公の能力をそのまま尖らせて突き抜ける。
 彼女は情報収集に特化した能力を持つ。依頼を受けて情報を収集する過程で、彼女は調査対象だった男主人公に興味を持つ。「異質な他者」に反撃し、自分を保つ手段であった「知る」能力によって、彼女は男主人公の持つ純粋さ、人間としての暖かさを「知る」のだ。

 ふと脈絡もなくツイッターのことを思う。ブログのように構える必要がなく、フェイスブックのように日常を引きずらず、自分の内面を無意識に語ってしまうつぶやきの数々。
 人は、後戻りはできない。「知らない」ことによって「普通」でいられた時代には戻れない。「知る」能力をとぎすまし、一人ひとりが精神的な意味で裸になる。「異質な他者」を突き崩し、歴史上かつてない本当の意味での「理解」と「人間関係」とにたどり着く。そのような生き方を暗示しているのだと思う。「ドラゴン・タトゥーの女」は。

追記

 本当に私がここで書いたような内容なのか、これから原作を読んでみるつもりです^^;
 しかし、自分で読み返してみて、妙に気合いが入ってしまっているのに驚きました。まあせっかくだからアップしてみます。

追追記

 で、誰かのブログを読んでいるうちに、ああなるほどこれは村上春樹さんの世界にもつながっているなあと気づいた。

追追追記

 一応15禁なので…^^; 15禁以上は大人になってから、ということにしてくれるとブログ化しやすいんだけどなあ。映画鑑賞は自己責任でお願いします…。

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2012年1月30日 (月)

「ぼくらの」

 「ぼくらの」という漫画を読んだ。アニメの方は観てないが、少なくとも原作はなかなか良くできている。

 が、設定もストーリーも少々過激で、ブログ化するかどうかずいぶん悩んだ。(そんなことで悩むなとつっこむべからず。まあ、実名も立場も公開しているブログなので、それなりに気をつかって書いているのだ…)

 私は基本的にお涙頂戴物が嫌いだ。特に登場人物が死ぬ話が嫌いだ。そもそも「死」は、ストーリー、プロットに関わりなく悲しいものに決まっていて、登場人物に感情移入させておきながら、その人物を物語から退場させれば、読者は誰だって喪失感を感じるものだ。つまり、たとえそのストーリーで泣かされたとしても、なんだかその涙は空々しいものと感じる。

 「ぼくらの」という漫画は、ググってみればわかるが基本設定はそういう漫画なので、登場人物が次々退場していく。それなら何でブログ化しているのかというと、その中のいくつかのエピソードが本当に良くできていると思うからだ。単なる喪失の物語に終わっていない。

(ここからネタバレ注意)

 お勧めは単行本の6~7巻のエピソードだ。そのエピソードの登場人物の女の子は、ある事情でピアノを弾くことになる。その演奏の出来いかんによって大勢の人々が命を失うかも知れないという差し迫った状況だ。
 その女の子は、見も知らぬ大勢の人々のために自分の命を賭してピアノを弾こうとする。しかし、演奏する指は鍵盤を走らず、次第に彼女は追い詰められていく。
 しかし、絶望的な状況にありながら、むしろそれ故に彼女はそのすべてを自分の運命として受け入れる。悲しい出来事も、楽しい出来事も、たわいもない日常の風景も、友達も、思い出も、自分の身の回りの全てとのつながりを感じ、その中で生きていることの充実感を得る。ピアノを演奏しながら、自らの弾くピアノの音を聞くことによって現実を明視し、その中で生きている自分の姿に、「多幸」を感じるのだ。

 ここからはおまけ話だが、似たような感覚をどこかで味わったことがあると思い、しばらく考えているうちに本年度のアカデミー作品賞候補にもなっている「ツリー・オブ・ライフ」に思い当たった。
 「ぼくらの」で演奏されているラヴェルのソナチネをiTunesで落として聴いてみたところが、その雰囲気が「ツリー・オブ・ライフ」で印象的に使われているスメタナのモルダウの、主旋律が始まる直前の部分に似ている。木の間からちらちらとこぼれる陽の光のような、川面のさざめきに細かな光が乱れ踊るような…。

 「誰かのため」という生き方は現代においても力を失っていない。しかしこの現代社会においては、その言葉はそれぞれの心の奥の方に沈み込んでしまっていて、本当の力が発現されにくくなっている。
 自分の身の回りをただありのまま見つめること、そんなたわいもないものこそが、眠っていた様々な価値を心の奥から呼び起こすことにつながる、そう思わせてくれる。


追記

 で、また妄想だが、「ツリー・オブ・ライフ」の監督のテレンス・マリックは、「ぼくらの」を読んでいるのではないかと。足かけ5年以上の月日をかけた制作期間の途中で、大幅な脚本変更があったらしい。「ぼくらの」のそのエピソードが書かれた2007年頃はその時期にタイミングが合っているような気がする。ジャパニーズマンガにはそのくらいの影響力がありそうな気がするのだが…^^;

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2012年1月 3日 (火)

世界に視点を与えるもの

 観察者のいない閉じた宇宙の中では、あらゆる慣性系が静止し、加速系でさえもエネルギー保存則の観点からはなにも起きていないに等しい。そんなふうにちょっと前の記事に書いた。(ツイッターだったかな書いたのは…)

 我々は永遠に揺れ続けるだけの宇宙に浮かんだ、チリのようなものかも知れない。だがこのチリは世界に視点を与えるという決定的な働きをする。

 我々が「視点」を世界に与えることで、時間が生まれ、方向が生まれ、関係が生まれる。そして我々は、互いの「視点」をつなぎ合わせることで、認識可能な「現実」を互いに共有し、その中で肩を寄せ合って生きている。だから我々の心は、世界や、他者の心とつながりあっている。つながることが「現実」を創り出し、人の心を創り出している。

 我々の心が世界や他者とつながりあっている点については、ここで断るまでもないだろう。今日の天気、気温、音、声、食べ物、時間、親、友達、そしてこれまでに経験してきた全てのこと。我々の心はそれらの影響を受け、変化しながら揺れ動いている。

 最初に「世界は閉じた宇宙の中で静止している」と書いた。もしこの戯言が戯言ではなかったとしたら、我々の心も宇宙全体という視点では静止しているのだろうか。エネルギー保存則が示すように、心や、それが生み出す我々の行動の一つひとつは、我々を含む「系」全体という視点で見れば、実は何も起きていない幻のようなものなのだろうか?

 もちろん答えは否だ。
 我々の心が世界に「視点」を与えた瞬間に、世界は全体の単純さから局所的な複雑さへと性質を変化させる。我々が世界に与える「視点」が局所的なものであるからこそ、それらの視点は背後に無限の接続可能性を生み出す。つまり我々の心は無限の「自由」を持っている。(と私は信じている)

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2011年9月11日 (日)

「ツリー・オブ・ライフ」

(ネタバレ注意)


 ハーバードとオックスフォードで哲学を学び、MITやフランスの大学で教鞭を執っていたという、テレンス・マリックの最新作である。カンヌ映画祭でパルム・ドール(グランプリ)を取ったらしい。つまり、既に世間的に評価を受けている作品ということになる。

 結論からいえば、名作だと思う。見終わった後の満足感もあった。それなのに二時間半の間、多くのシーンで苦痛を感じていた。
 展開の難解さ自体はそれほど問題にならなかった。理不尽な展開の映画には慣れている。時折引用される聖書の言葉も、あちらの文化の人達にとっては宗教的要素は日常的なものであろうと思い、特に違和感もなかった。
 やはり苦しかったのは、ストーリーのメインにある家族の物語だ。特に思春期を迎えた主人公の少年の葛藤が延々と描かれるシーンを見続けるのはつらかった。

 私の場合は、この作品を観てつらい思いをすること自体が、ある程度予定通りであり、ほとんど確信犯だったとさえ言える。自分の中に何十年にもわたって居座り続けているものと対峙するために、「映画」を利用することによってそのきっかけにしようなどと考えていたのだ。カウンセリング用語で「直面化」という言葉があったと記憶しているが、それを意識的にやろうとしていたふしがある。

 ところが、飲み込まれそうになった。所詮「映画」となめていた部分があったのだろう。おそらくはテレンス・マリックが、自身のトラウマと対峙し、それを心の中からえぐり出した結果としての少年の日々の数々が、私自身のトラウマと重なる。一つひとつの出来事は、思春期における典型ともいうべき葛藤を描いたものである。だが、作家が自身の内面をさらけ出した結果として、観る人に他人の話とは思えないようなリアリティを感じさせている。

 そういった「不快」が頂点に達し、映画館から逃げ出したくなるようないたたまれなさを感じ始めた頃、突然ラストシーンがはじまる。

(ここから特にネタバレ注意)


 荒れ果てた大地を一人歩む主人公の目の前に、母親らしき人物が現れる。そして少年時代の自分。そしてかつての父親、弟たち。そして様々な人々。広い湖の浅瀬に、過去と現在とが入り交じり、数え切れないほどの人々が集まり始める。そして全ての人々のにこやかな笑顔。

 そのシーンを観ながら私は、私自身が30を過ぎて記号論や現象学に出会った時のことを連想していた。
 前に、「記号論とか現象学とか」という題で、ブログ記事を書いたその想いである。

 一つひとつの「記憶」は、我々を意識的にも無意識的にも支えている。だが、人のこころを作り出すのは個人それぞれの直接的な経験だけではない。人としての、またこの世に存在するものとしての「古い記憶」が、我々を陰から支えている。それは「集合的無意識」と呼ばれるものかも知れないし、また「相互主観」と呼んでいいものなのかも知れない。我々はそれに触れる時、一見無駄なようにも思われる様々な出来事、例えば「つらい思い出」さえもが、意味を持ってつながりあって自分の心を作り出していることに気づく。そして、ふと、奇妙な幸福感を感じるのだと思う。

 

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2011年4月27日 (水)

「マイレージ マイライフ」

 面白かったというより、なんだかあれこれ考えさせられた。

 一見、「家族の大切さ」といったありがちなメッセージを込めた作品にも見えるが、そう単純でもなさそうだ。

 時々「プロテウス的人間」という「洞穴日記」の記事が、アクセス数の上位に上がってくる。この言葉は、小此木啓吾さんの『モラトリアム人間の時代』で知った。激しい変化と、捉えきれないほどの多様性を特徴とする現代社会に適応するために、アイデンティティの不安定さをむしろ積極的に受け入れ、自らを変化させながら生きていく「プロテウス的人間」。これが現代人の典型であるかどうかはともかく、一つの生き方であることは間違いない。

 そういう生き方をしていると、当然「自分」という存在に対する確信が揺らぐ。揺らいで不安定になるから、安定を求めてさまよう。
 未来が自分の心の中にしかない存在であるのと同様、「安定」も心が作り出したものに過ぎない。現代人は誰でもそれを知っている。知っていながらそれを追いかける。

 だがたとえ、そのような幻に過ぎないようなものを削り取っていってもなお、「幸せ」を感じる瞬間は確かに存在する。現実の不確かさ、自らの心の偽りを明確に意識しながら、それでも「幸せ」は生きている瞬間瞬間に心の奥から立ち現れる。

 走ろう、走ろう。走る過程にしか「幸せ」は存在しない。「幸せ」を感じることが生きる目標で良いではないか。


追記

 今に始まったことではありませんが、私の映画評は映画評というより映画を観ている自分の自己分析ですね。自覚してます^^;
 私の自己分析はともかく、「マイレージ マイライフ」は、あれこれ考えさせられるという点で名作だと思いますよ。観ている人のイメージを喚起する「空所」の機能がしっかり働いている作品です。
 

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2011年4月21日 (木)

悲喜劇

 映画作品にも様々なジャンルがあり、どのジャンルにもそれぞれよさがあるが、私は「悲喜劇」が最も好きだ。
 それは悲喜劇が「現実」そのものだからだろう。

 このへんてこりんなブログで、現実は言葉が創り出していると語ってきた。さらには人の「心」が現実を創り出しているとも語ってきた。これらは哲学の領域ではありふれた考え方であり、殊更に「私は語ってきた」などと語るのもおこがましいとは思うが、文脈を確認するための記述だと了解していただきたい。

 じじいになったせいか「現実」そのものが、なんだか時々悲喜劇に見え始めた。
 「現実」は様々な「心」が織りなすテクストだ。

 野心。
 嫉妬心。
 愛(と勘違いした寂しさ)。
 虚栄心。
 エトセトラエトセトラ。

 それらがあざなえる縄のように絡み合い、「現実」という悲喜劇が創作される。

 悲喜劇を鑑賞するのは楽しい。現実という悲喜劇の筋書きは虚構テクストのように不確定で空所だらけだ。
 だから現実を読み解くことは、一種の自己カウンセリングとして作用する。わかりやすく言えば、物語を読むことで癒されるのと同じ作用があるわけだ。

 じじいになって、時々そんなふうに現実を眺めるようになった。たとえ自分がその悲喜劇の当事者であってもだ。つまり、不死身度が増したとも言えるのだが、全く自慢にならない話ではある。


追記

 久しぶりのブログなのに、訳のわからない内容になってしまった。少しずつ心のエネルギーも溜まってきているようなので、また戯言を書き始めようと思う。


 
 

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2011年4月 2日 (土)

「The Fall 落下の王国」 と「ハウルの動く城」

(ネタバレ注意)

 「ザ・セル」の監督の作品と聞いて、たぶん暗い作品だろうと思い、ずいぶん前に録画したままハードディスクの中で眠らせていた。さらにさわりを観たときの印象で、なんとなく「パンズ・ラビリンス」を連想してしまったため、観るのには心のエネルギーが必要な作品なのかなと思って躊躇していた。「パンズ・ラビリンス」は、後味がかなり悪かったのだ。基本的にはハッピーエンドが好きなのである。

 これは面白かった。すぐに「ハウルの動く城」を思い出した。プロットが同じだなあと。

 人は、誰でも自分なりの物語を持っている。それらの物語は、人がそれぞれ自分の人生を歩んでいく過程で、心の中で無意識のうちに書き綴っていったものだ。
 異なる人生によって書き綴られた異なる物語が出会った時、不思議なことが起きる。それぞれの現実と切り離せないはずの物語が、現実を離れて融合し始め、一つの物語になってしまうのだ。

 ハウルの城には誰も入ることが出来ない。ハウルの城はよく見ると、右心房左心房大動脈その他、リアルな心臓の形をしている。心臓は心の象徴であろう。ハウルは自分の心を要塞化し、誰も入れようとしなかった。そんなハウルの城に、老婆になる呪いをかけられたソフィーが入り込む。二人が共同生活を続ける内に、城の魔法の扉は、少しずつ今までと違う場所へと二人を導き始める。城はまずソフィーの故郷の家につながる。そしてそこからハウルの幼い頃の思い出の場所へとソフィーを誘う。生活を続けるうちに、二人はいつしか共通の敵を相手に戦い始める。自分の心に入り込もうとする真っ黒な他者の幻影と戦い続ける。城の壁は砕け散り、ソフィーから水をかけられ、燃えていたハウルの心臓は丸裸になる。しかしその時失われていたハウルの心が心臓に帰り、ソフィーは若さを取り戻す。

 「落下の王国」の主人公達もそれぞれの物語を持っている。恋に破れて絶望した男と、父親を殺された小さな女の子。男は、自分の現実をモチーフとして、女の子の気に入るような物語を語り始める。それは女の子をだますための物語だった。ところが彼の語る物語は、少しずつ女の子の持っている物語と融合し始める。その結果として、彼は自分の現実を反映した絶望的な結末を語れなくなってしまう。その結末を語ることは、女の子の物語の結末を絶望的なものにすることと同義なのだ。男が結末を語り終えたとき、彼ら二人の現実にも変化が生まれる。

 人と人とのつながりは、それぞれの物語の融合であると、実際時々思うこともある。
 まあどこかの熊の物語は、ちょいとややこしすぎるかも知れないが。

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2010年12月30日 (木)

「ゼノンのパラドックス」

 原題は「The Motion Paradox」。

 ゼノンはソクラテスが若いときに出会った人物とされている。彼は様々なパラドックスを世に残し、それらの難問は今も本質的な意味では解かれていない。

 アキレスが進めば亀は更に進み、アキレスがまた進めば亀はまた進むを繰り返し、結果としてアキレスは亀に永遠に追いつけないという「アキレスと亀」。
 飛ぶ矢は瞬間をとらえれば止まっているのだから、時間の流れを瞬間の積み重ねと解釈するなら、矢は実際には動いていないとする「飛ぶ矢の逆説」。

 これらは、我々の常識からはあり得ない考え方である。我々はスピードが速いものはスピードが遅いものに追いつくことを知っているし、飛んでいる矢は目の前を実際に飛んでいくことを知っている。
 しかし、これらのパラドックスを、数学的、本質的には解くことが出来ないまま、2000年以上の時が過ぎてしまった。数学科の教授である著者は、数学科の立場からこの哲学的命題の現代に至るまでの歴史的変遷を、わかりやすい平易な文体で、私たちに説明してくれている。

 いくつか興味深い記述を引用してみる。

「同じ瞬間に、ものがあり、かつないことはありえない。」(P32)
「二つの区間-白いときのAと白くないときのB-に分けられる期間で、白い物体が白くない物体に変わっているなら、ある瞬間Cには、それは白かつ非白でなければならない。」(P49)

 これまでどこかの熊が繰り返してきた「戯言」は、これらの疑問の答えの一つになっている。フッサールの言うように、「今」と「沈み込んだ過去」は「今」という瞬間に同時に存在できる。発火深度の異なるニューロン群がステレオグラム的に融合して「時間の流れ」を認識させているという考え方は、少なくとも「飛ぶ矢の逆説」を説明可能にする。
 著者自身、最終章「一筋の流れ」で次のように語っている。

「いったいどのようにして、次々と移り変わっていく静止画像が、時間の中をなめらかに流れる動画として解されるのか?」(P227)
「連続性は単なる意識による印象であり、錯覚を実在に昇格させる心が作ったものである。」(P230)

 そして、数学の研究者である著者自身が、数学の限界について疑問を投げかける形で、話は終わっている。

 ゼノンが提示したパラドックスのいくつかは、「人の認識」という意味では説明可能だ。そういう戯言をどこかの熊が何年もかけて説明してきた。第一、あれこれ説明するまでもなく、飛ぶ矢は実際に飛んでいる。
 しかし、そうすると新しい疑問が生まれてくる。「人の認識」を完全には説明することの出来ない「数学」とは、一体どのような存在なのか。
 もちろん否定的な意味で言っているのではない。「1+1=2」から始まる疑う余地のないように思われる「数」という真実が、「Motion(動き)」という極めて日常的な事実を、本質的には説明し尽くせないことに、単純な驚きを感じるのである。

 著者は最後に、ゼノンが現在まで生きていたらという仮定の下に、ゼノンにこのような台詞を語らせている。

「外の世界は、我々の感覚によってのみ知られる素材かもしれず、そういった感覚は、色、匂い、触覚、そして運動の錯覚をもたらすのだ。」(P233)

追記

 わたしゃ「ゼノン」と聞いたら、まずデビルマンを思い出すのですが…。いやまあその(^_^;)

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