カテゴリー「恋愛」の27件の記事

2012年8月 6日 (月)

「おおかみこどもの雨と雪」

(ネタバレ注意、これから見る予定のある方は絶対に読まないように^^;)

 たぶん日本で最も有名なアニメーションの一つである「機動戦士ガンダム」を監督した富野由悠季さんが、「おおかみこどもの雨と雪」を激賞して次のようにコメントしていた。

「本作は、変身物でもなければ、恋愛物でもないし、エコやら環境問題をあげつらったメッセージ物でもない。まして癒やし系でもない。それら過去のジャンル分けなどを飛び越えた物語になっている。描写が冷静だからだろう。文芸大作と言っても良い。それほどリアルに命の連鎖を描き、子供の成長の問題を取りあげている。そこに至った意味は刮目(かつもく)すべきなのだ。」

 特に「命の連鎖」という点については私も強く感じていたのだが、そのような観点で、本作品を鑑賞後にいくつかの物語を連想していた。
 一つ目は西原理恵子さんの漫画「いけちゃんとぼく」である。

(ネタバレ注意)
 
 年老いて出会って短い恋をした「いけちゃん」は、恋人が亡くなった後に時空を超えて幼い頃の彼に会いに行く。そして彼が成長して別の恋人と出会うまで見守り続ける。
 西原さん自身がこの映画宣伝ブログで語っているように、この漫画の「いけちゃん」は西原さん自身だ。人は自分の思いを、自分が出会う様々な他者に投影する。西原さんは次のように語っている。

「今まで付き合った彼氏の、何人もの辛い話や悲しかった話なんかを聞くでしょ、ちっちゃい頃のね。それを息子がちょうど同じ大きさになってきた時に全部思い出して、それがちょうど1冊になった本だったので、その後姿のシルエットが、昔ずっと好きだった何人もの人に重なっちゃってね。あの人達にもこんな小さな頃があったんだなぁと思って。」

 命は連鎖する。人の思いは連鎖する。

 ジョン・アービング原作で、『明日に向かって撃て』の監督でもあるジョージ・ロイ・ヒルが撮った『ガープの世界』も、同様のテーマで作られた作品だろう。短命であるという運命を背負う家族が、その悲劇をありのまま受け止めながら、命をつなげていく。あの衝撃的なラストシーンで、ヘリコプターで運ばれながらパイロットだった父親とのつながりを感じ、にこやかに笑いながら、家族に「忘れないで」とつぶやく主人公の姿は、「おおかみこども」の主人公である花さんの姿にも重なる。

 本作品の監督細田守さんの『時をかける少女』について私は以前次のように書いた

「原作が持っていた、現代社会の延長としての未来への不安といった高度成長期ならではのテーマをばっさりと切り捨て、全てが横につながりあった「今」この瞬間の、「生」のみに焦点を絞り込んだ脚本の意図には非常に共感できる。」

 『おおかみこどもの雨と雪』においても、「横のつながり」が描かれている。
 主人公の花さんは、おおかみを「しっかり生きられるように」自然に帰すという目的を果たした。だがそれによって父親と花さん二人の絆は消えてしまったかのようだ。しかし、その絆はべつの二人によって引き継がれる。「雨」が結びつけた別の命のつながりによって。

 時間を超え、空間を超えた命の連鎖の物語だ。世界につながりのないものなど何もないのだと。


追記

 この作品はメタファーだらけで、そういう意味でジブリの「千と千尋の神隠し」とか「ハウルの動く城」とかと似ていると思うのですが、そういった視点での作品分析をやってしまうと、私自身の「傾向」とでも言うべきものが明らかになってしまいかねないような気がするので、それは止めておきたいと思います。(なんのこったい)
 まあ、一言だけ語ると、「おおかみおとこ」は、全ての人が擬似的な個性を手に入れた結果として、かえって脆弱化した真の個性を象徴しているんでしょうね…。

→ そういう考え方についてはこららが詳しいです。私自身が15年前に書いた物ですが…

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2012年3月 8日 (木)

一つのコンタクトを使い続ける男の話

 今朝、コンタクトを洗っていて、パキッと割ってしまった。
 仕方がないので片目だけレンズをつけて出勤した。
 すぐに購入した眼科に電話をかけたが、カルテを調べてみると前回購入したのが5年前だということだった。「間違いないですよねえ。」という電話の向こうの看護婦さんの声があきれた調子だった。

 そういえば最近どうも装着感が良くなかった。なんだか目がごろごろするので、ついに何とか炎の類をやってしまったのではないかとびくびくしていた。ひょっとしたら既に割れた状態のまま使っていたのかも知れない。

 大体私は物持ちがいい。単にケチなだけかも知れないが。
 確か、10代から30代にかけて、一つのコンタクトを14年間使い続けたと記憶している。

 ある日の夕方、土手をランニングしていて風で目にほこりが入った。コンタクトはほこりが入ると身動きが取れないぐらいに痛む。それで立ち止まって目をこすっているうちに、コンタクトがぽろりとこぼれ落ちた。
 どうも草むらに入ってしまったらしい。夕暮れ時の薄暗い光を頼りに30分ほど探したが、見つからなかった。転がっていったあたりに石を積んで目印にしてその日は帰った。次の日また出かけていって、探すこと1時間、ついに草の間に転がっているレンズを発見した。普通に買いに行けばすむものを、そこまでして探すというのは、どうも探し出すことそのものをおもしろがっていたような気もする。

 30過ぎのある年、ついに片方のレンズが割れてしまって、買い直しにいった。ところが以前お世話になった眼科が無くなってしまっていた。仕方がないので適当に電話帳かなにかで眼科を見つけて出かけた。
 生き残った方のレンズを見せると、そこの眼科の医師から「これは表面が汚れて結晶化してますね。よくまあここまで使い続けたもんですね。でも危ないですからこんなになるまで使わないで下さいね。」と、変に感心されてしまった。

 というわけで、(半分以上諦めているが)万一私が結婚できるとしたら、第一のセールスポイントは絶対に裏切らないことですな。これはそう努力するとかいう類の話ではなく、私の性格そのものと言っていい。(なんでそこに話が行きますねんと、一人ぼけとつっこみ。)

追記

 次の日には新しいコンタクトが手に入りました。ついでに残った方も替えてしまいましたが、びっくりするぐらいに視界が鮮明になりました。もっと早く替えてしまえば良かった…。
 

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2012年2月12日 (日)

「ドラゴン・タトゥーの女」

(ネタバレ注意。これから観る予定の方は読まない方がいいですよ^^;)

 過激すぎる内容の作品について記事を書くのはいつも気が引けてしまう。別に過激すぎる作品ばかりを選んで観ている訳ではないと納得して、これを書き始める。
 しかし思うに、ツイッターなどネットを伝わる情報は、ネガティブな内容のものほど伝播力が強い。だから本当に伝えたいメッセージを含んだ作品は、時として毒と棘とを身にまとった過激な姿を見せる。そのような見かけを持つ情報の力を、クリエイターが計算しているのではないかとさえ思う。

 現代社会を生きる者は、個性と独自性とを手に入れた結果として、他者の内面が見えにくくなった。皆が「普通さ」の中にどっぷりつかって生きていた時代であれば、以心伝心、互いの内面は自分の内面を知りさえすれば自然に理解できた。
 しかし、インターネットに象徴される現代文化は、個々人にかつてない独自性と能力とを与えた。その結果として人は一人ひとり、一人で生きる能力を手に入れたが、当然の結果として一人ひとり孤独になった。この辺あたりは、国語の教科書にも教材として採用されている山崎正和さんの「新しい個人主義の誕生」でも説明されていることだ。
 既に後戻りはできない。個性と独自性とを手に入れた現代人は、ようやく獲得した「自由」を捨てることなどできない。だとすれば、一人ひとりが自らの個性を活かし、能力を発揮して、既成の価値に頼らない、新しい人と人との関係を築くしかない。

 「ドラゴン・タトゥーの女」のリスベットは、まさに袋小路に追い詰められた現代人そのものだ。彼女の周囲は彼女を傷つける「異常な人々」で溢れる。これは、個性と独自性を獲得した結果として、一人ひとり他者が異質な存在になってしまったことの極端なデフォルメと読み取ることもできる。そのような「異質な他者」に対してリスベットは、自分の能力を極限にまで尖らせることで、自分という存在を保とうとする。
 この作品がここまでの内容であったなら、単なる絶望的、悲観的な物語ということになるが、話はこの主人公の能力をそのまま尖らせて突き抜ける。
 彼女は情報収集に特化した能力を持つ。依頼を受けて情報を収集する過程で、彼女は調査対象だった男主人公に興味を持つ。「異質な他者」に反撃し、自分を保つ手段であった「知る」能力によって、彼女は男主人公の持つ純粋さ、人間としての暖かさを「知る」のだ。

 ふと脈絡もなくツイッターのことを思う。ブログのように構える必要がなく、フェイスブックのように日常を引きずらず、自分の内面を無意識に語ってしまうつぶやきの数々。
 人は、後戻りはできない。「知らない」ことによって「普通」でいられた時代には戻れない。「知る」能力をとぎすまし、一人ひとりが精神的な意味で裸になる。「異質な他者」を突き崩し、歴史上かつてない本当の意味での「理解」と「人間関係」とにたどり着く。そのような生き方を暗示しているのだと思う。「ドラゴン・タトゥーの女」は。

追記

 本当に私がここで書いたような内容なのか、これから原作を読んでみるつもりです^^;
 しかし、自分で読み返してみて、妙に気合いが入ってしまっているのに驚きました。まあせっかくだからアップしてみます。

追追記

 で、誰かのブログを読んでいるうちに、ああなるほどこれは村上春樹さんの世界にもつながっているなあと気づいた。

追追追記

 一応15禁なので…^^; 15禁以上は大人になってから、ということにしてくれるとブログ化しやすいんだけどなあ。映画鑑賞は自己責任でお願いします…。

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2010年7月25日 (日)

アニマ

 アニマというのは、分析心理学の用語で、大雑把に言えば誰しも心の中に持っている理想の異性像のことである。(もちろん本当はそんな単純なものではない。興味のある人はウィキペディアとかで調べるといい。)

 前にも書いたが、若い頃はユングの言説は想像の世界の物語としか思えなかったが、じじいになってからはなんだか納得できるような気がすることが多くなってきた。

 誰かを好きになったとき、自分でもなぜその女性にほれたのかわからないときがある。これまた前にも書いたが、いったん人を好きになるとそれこそ世界に女性はその人ただ一人という状態になってしまう。そんな状態だから、自分をメタ認知的にモニタリングすることなど出来なくなっているわけだが、しばらく経って、ほんの少し自分を客観的に観察できるようになると、ああ自分は自分の心のなかにあるあのイメージを追っかけていたのだな、とわかることがある。
 ここで「あのイメージ」とは、様々なものが考えられる。例えば、ちょっと前に書いた「手を握られること」などはその典型だろう。その記事に書いたように、その女の子本人に執着しているという意味ではなく、思い出全体が無意識レベルで理想の女性像の元型たるアニマに変化して、私の心を捕らえてしまっている可能性があるという訳だ。
 そういう「アニマ」は、現代文化の多様さと複雑さをそのまま反映して、それ自体も多様化し複雑化しているはずだ。それを意識化するのは、私のようなじじいならともかく、若者にとっては容易なことではあるまい。

 アニマに限らず、我々の心は様々な心の「元型」によって振り回されているのだろう。一つ前の記事に書いた「ジョーカー」なんかも、現代人が克服すべき「元型」の一つに違いない。
 それらのイメージに振り回されること自体は、現代文化の中で生きている以上、ある程度仕方がないことだとは思うのだが、少なくとも振り回されている自分の姿はモニタリングしておきたいものだ。

 メタ認知を対象とする教育は、そういう無意識の意識化にこそ意義があると思うのだが。(まあいつもの独り言です^^;)

追記

 アニマと現実とが完全に一致してしまうことも、可能性としてはあるんだろうけどね。まあそういうのを奇跡といいます。(じじいはかくかたりき)

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2010年7月10日 (土)

手を握られること

 『考える人』という雑誌に、「村上春樹ロングインタビュー」というのが載っていた。
 ほぼ全ての作品について、村上春樹さん自身がコメントしており、非常に読み応えのある内容だった。
 なんだか初期の作品から年代順に読んでみたくなった。

 『1Q84』の「手を握られること」関連の話を読んでいて、ふと「俺も手を握られたことがあったなあ」と思った。
 『1Q84』の主人公達は、10歳の頃手を握りあった思い出を胸に、その後の人生をそれぞれ生きていく。いつか再会する時が来るのを信じて。

 確か中二の夏祭りの時だった。田舎の中学校の校庭の、薄暗いナイターと、数珠つなぎの電灯の下で、輪になってみんなが踊っていた。たぶん、オクラホマミキサーかなにかの、ゆったりとしたダンスだったと思う。クラスメイトの、少し気になっていた女の子が、その時明らかにダンスの握り方とは違う力で、ダンスを踊る十数秒の間、私の手を握ってくれたのだ。

 中二というのは不思議な年齢だ。そんなたわいもないことで心を揺さぶられる。祭りの非日常的な雰囲気も後押ししたのだろうが、たったそれだけのことで、私はそれから何ヶ月も、その女の子と、その女の子に手を握られた瞬間のことを、それこそ寝ても覚めても考え続けた。

 そういう子供の頃の思い出は、自分の心にいつまでも影響を与え続けているような気がする。もちろん無意識レベルの話であって、『1Q84』の「天吾くん」のように私がその女の子に実際に執着し続けているという意味ではない。

 こういう話を、こんなところで書いたりしているのは、まあじじいになったということなのだろうなあ…。

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2009年10月14日 (水)

ツンデレ女と不死身の男

 そういうテーマで作られている作品をよく見る。映画、小説、漫画を問わずだ。キャラクターの特徴としてそういう味付けがされている作品だったら、それこそ平安の昔からあっただろうが、それがテーマそのものになっている作品が最近やたらと多い。

 権威とか、価値とかいうものは、人の自由を奪う代わりに、その分人の心を守る働きもしていたのだろう。その力が弱まった現代社会において、個人は自分を守るために二つの道のどちらかを選ばざるを得なくなる。つまり人を寄せ付けないぐらいに攻撃的になるか、どんな攻撃にも耐えられる不死身になるか。(消極的な意味での「個人」でいようとすればだが)。

 そうすると基本的に男は誰でも、子供の頃に母親から守られていたという古い記憶を心の奥に持っているため、「不死身」という選択をせざるを得なくなる(ような気がする)。つまり表に出てくる態度はどうであれ、本質的な意味で女性には逆らえない。これは今に始まったことではなく、それこそ太古の昔からそうであった(ような気がする)。消極的な意味での「個人」でいようとする限り、この無意識領域からの縛りに抗うことはできまい。

 まあ前にも書いたが、現代社会はようやく人の一生の青年期のような段階に入りつつある。我々は様々な「価値」を再選択しようとしている。「ツンデレ女と不死身の男」もそういったアイデンティティ混乱期の一つの形といえるのではないか。いつかそういう段階を乗り越えて、一人一人が「積極的な意味での個人」となる大人の時代がやってくると信じている。

※ 「積極的な意味での個人」であっても、結局不死身にならざるを得ないような気も…。うーむ^^;

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2009年8月 1日 (土)

goo の記事

 goo の記事に「昔好きだった人に未練がある場合に思わずやってしまうこと」というものがあって、その一位が「その人の名前を検索する」だった。

 熊男?………いや、やったことありますよ^^;
 というよりそんなことをするのは自分だけだと思っていて、なんだか妙に後ろめたい気分でしたが。
 まあ、世の中に同類が多いからって安心していいようなものでもないでしょうけど。
 検索したはいいが、妙に同姓同名が多くて、かえってやるせない気分になってしまったりしてね。

 お前は一体何歳だって?まあプロフィールでもご覧になって下さい。
 立場と名前を公開している人間が書くブログじゃないな、こりゃ。

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2009年4月13日 (月)

「劇的なる日本人」

 タイトルのような題名の教材を、かなり前に授業したことがある。著者は山崎正和さんである。内容は大体以下のようなものだ(ったと記憶している)。

「日本人は『八百万の神』に象徴されるように、歴史上、絶対的な存在を精神的な背景として持たなかった。だから日本人にとって、自己の存在を証明できるのは唯一他者の視線のみであり、それは全く予測不可能な相手であり、ある意味常に絶望と向かい合いながら『劇的に』生きてきたといえる。」

 本当は世阿弥の思想などにも言及した格調高い文章であり、ここまで端折ってしまうと、元の文章の「熱」は伝わらないかも知れない。ともあれ若い頃の私はこの文章を国語の授業で「熱」っぽく語っていた。

 しかし本当の意味でこの「劇的さ」を理解し始めたのは、この5年ほどかも知れない。予測不可能な「他者の視線」という「運命」に対し、それを無視するでなく、それに媚びるわけでなく、真っ向から対峙することの心地よさ。ともすれば自分を押し流そうとする「可能性」という激流の中で、笑みを浮かべて波を渡る。自分が生きて考えて、そしてあえぎながらも泳いでいるこの瞬間だけが、唯一の真実なのだ。

 ところで、ひょんなことから山崎さんの文章をまた授業させていただくことになった。今年はこれから丸山圭三郎さんの文章から始まって、安部公房さん、そして山崎正和さんと、恐ろしいほどに私好みのラインナップで授業していく。はたしてどんな1年になるのだろう…。

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2009年2月22日 (日)

人と話すこと

 誰かと会話する時、一番難しいのは互いに会話できる距離に数名以上いるときである。数名以上というのは文字通り数名程度の話であって、相手が数十人ということになるとこれは最初から日常的な意味での「会話」は不可能になる。意志の伝達が双方向からキャッチボールのようにスムースに行われるごく日常的な会話の話だ。(数十名以上が参加する「授業」でも、日常の会話レベルでの他者との関わりが必要だ、などといった理想論を論ずるのはまた別の機会としたい。)

 例えば誰かを好きになったとする。(「例え話」に偏りがあるのではないかなどとつっこんではならない。恋話は日常的でわかりやすいので多用しているだけだ。)
 好きな相手と話をしながら何とかこっちの気持ちを理解してもらおうとするわけだが、これがそう簡単なことではない。人の心は実に単純にその場の状況に影響を受ける。受け取る言葉も、発する言葉も、その場にいる第三者の重力によって様々なカーブを描く。相手の言葉をキャッチすることも、相手のミットに投げ込むことも実際簡単なことではない。

 10年ぐらい前にカウンセリングに興味を持ち、知り合いに勧められて上智大学に当時あったカウンセリング研究所の3泊4日の研修会に2回参加した。クライエントを演ずる人を中心に車座になり、彼の言葉を観察する訓練をした。クライエント役が話し終わった後に、聞き取った言葉を研修者一人一人が全員の前で報告する。この時ほとんどの研修者が、「ほんとうにそんなことを言ってたのっ?それはあなたが勝手にそう思っているだけじゃないのっ!」と教官に徹底的にしごかれる。

 実際人は、身の回りの現実を、様々なフィルターを通して受け止めている。そのフィルターは自分の心の中にもあり、また時にはその場のコンテクスト、特にその場に居合わせた人の心を借りてきて、その場だけのフィルターを創り出す。つまり横目で他者の視線を気にしながら会話する。それを意識化できていない場合、コミュニケーションが成立するはずがない。失恋は必至であろう。
 またたとえ他者の影響を意識化できていても、恋愛やその他の、人と人とのぎりぎりの関わり合いにおいては、その場にいる他者の影響を完全に排除して相手の言葉を「ありのまま」受け止めるのは実際困難であろう。

 だから私は会話するときは一対一が好きだ。一対一で話をするときには、体全体で相手の言葉を受け止めようとする。家庭訪問とかに行っても、大抵保護者の皆さんと一対一で話をする。一人分の人格を受け止めるのには一人分の人格が必要などといった理屈は、単純な引き算の問題だ。

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2009年2月 7日 (土)

たまにはちょいと暗い話(読み飛ばすことをお勧めします)

 一人暮らしを始めてずいぶんになる。ふと気づくと、人生の半分以上を一人で生きている。寂しくないと言えば完全に嘘になる。通りを歩いていて、仲の良さそうな親子をみると、胸の奥からわき上がってくるものにおもわずその場に立ち止まってしまう。それでも普通に生活していけるのは、たぶん大勢の若者に囲まれて、毎日どんちゃん騒ぎしながら生活しているおかげだとは思う。(彼らにとってはしつこいうるさい親父なのだろうが…)

 このブログの記事の「認知心理学」が人気記事ランキングで時々上位に来ているが、あれに書いたことは本当で、いったん人を好きになるとそれこそ日常生活の9割はその人のことばかり考え続ける。(もちろん多少の誇張もある)。それで、振られたとわかったらノー味噌にせっせと消化剤を振りまくわけだが、とうてい火災は収まらず、あきらめて燃えるに任せて自然消滅を待つ。まあ大体鎮火するまで1~2年といったところか。われながらやれやれである。こんなことばかり繰り返しているから、まあ相手は見つからないわけだ。つまり頭が固い。(本人は、俺は日本男児だからとへたな言い訳をしているようだが…)

 こんなところにそんなプライベートな話を書いていいのかとつっこまれそうだが、この程度の話は人権学習とか性教育とかでまあ普通に語る範囲だ。自分の知識と経験を切り売りするのは、教員の仕事のうちであろう。

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