カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の436件の記事

2017年6月30日 (金)

無限とは何か?

 そういう題名の本(オーム社)を読んだ。

 あまり意識的に選んで買ったような本ではなく、暇つぶしの読書に良さそうな本を探していて、副題にカントールの名前があるのを見てそのままレジに持っていった。

 なかなか怪しい内容だった。

 本の裏の紹介文に次のようにある。

「無限とは何かという問題は2500年にわたり人類にとって深い謎であった。19世紀末にドイツの数学者ゲオルク・カントールは、集合論によって無限に新たな解釈を与えた。同時に様々な矛盾の存在が明らかになり、数学者達は進展をとげるには厳しい状況に置かれた。」

 本の内容そのものは、数学の話題でありながら、数学そのものはほとんど出てこず、数学者達の人間ドラマがメインの本だった。
 それでも、20世紀初頭の雰囲気が分かっただけでも私にとっては収穫だった。

 前にも書いたが、20世紀初頭といえばソシュール、フッサール、カントール、そしてアインシュタインなどなど、様々な天才達がそれまでにない学問分野を創り出した時期である。

 私はそれらの全てが、実は一つの問題を扱おうとしていたのではないかと、最近は考えている。そしてその始まりは数学だったのではないかと。

 数学は真実にしか思えない。1+1は2であると誰しも思うだろうし、どう考えてもそんな単純な論理に瑕疵などどこにも見つけられそうにない。
 そんな完全無欠なはずの数学に、「矛盾」があるのだとしたら、むしろ人の関心は、数学そのものよりも自分自身に向けられるに違いない。

 矛盾する存在に対して、それを完全であるとしか認識できない我々の心とは、そしてそれによって認識される現実とは、いったいその正体はなんなのだろうかと。

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2017年5月29日 (月)

「相対性」ということについて

 ヒトは自分の脳から出ることはできない。見ている世界は脳の中に映し出された虚像に過ぎないのに、目の前に色があり、形があり、三次元的な世界が広がっていると信じている。

 だから本当の意味での「相対性」ということをなかなか理解できない。

 例えば地動説と天動説が典型で、天動説が勘違いだとしても、だからといって地動説が正しいとは簡単には言い切れない。「地動説として捉えたときに天体の動きを計算する際に、比較的にシンプルですむ」というだけのことだ。
 つまり我々はどうしても何らかの基準点を考えずにはいられない。天動説における基準点が地球であり、地動説における基準点が太陽であるというように。空間のある点に、一方は地球がはりつき、一方は太陽がはりついているだけのことであり、どちらも特定の基準点を設けているという点では本質的な違いはない。

 実際には、太陽も地球も空間のどこにはりついているわけでもなく、そこには「まるで太陽の回りを地球が回っているかのように見える相互関係」がある」だけだ。

 世界には関係しか存在しない。

 言葉にしてしまうとなんだそんな単純なことかという感じだが、この意味を本当に正確に理解するのは簡単なことではないのだろう。

 二つの物体が、ある相対速度を持っているとして、それはどちらが動いているわけでもない。そこにはただ相対的な関係のみがある。そういわれてもピンと来ないのが当たり前だ。

 おそらくそのことに最初に気づいたのは一部の数学者であり、そして記号論の創始者であるソシュールもその一人であるに違いない。

 ヒトは自分の脳から出ることは出来ない。無意識のうちに自分の脳を座標ゼロとして思考することに慣れきってしまっていて、自分がその影響下にあることにさえ気づかない。もうそろそろ気づいても良い頃だとは思うが。自分たちが観測者に過ぎず、そしてそれは世界の本質などではないということに。

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2017年1月14日 (土)

下血したぞ(完治したけど)

 こんな経験は滅多にできるもんじゃないので、自己カウンセリング的な意味も含めて記録を残しておく。

 そもそもきっかけは腰痛だった。昨年末の飲み会で、無理な姿勢を長時間続け、「やばいかもしれない」と思いながらテニスをして、予想通りに痛めてしまった。それで、年末年始の休暇のほとんど全てを寝て過ごす羽目になった。

 正月三日を過ぎた頃にようやく痛みも引いて、起き上がれるようになって実家に帰ってきた。もらって来たおせちを腐らせちゃまずかろうと夜中に一気に胃袋に流し込んで布団にもぐり込んだ。

 夜中の一時頃、胃袋の下あたりに刺すような痛みを感じた。最初は食中毒だと思った。おせちがあたったと思った。それでとにかく体の中の物を出してしまおうと、水をがっぱがっぱ飲みながら、まず胃袋を洗浄した。それでも痛みは治まらない。

 下からも出してしまおうときばったが、これがまた全く出てこない。ふと気づくと、腰痛で倒れて以来トイレに行った記憶がない。どうも10日分ぐらいがぎゅうぎゅう詰めになっているらしかった。腹の痛みはいっこうに治まる気配はない。脂汗を流しながら30分以上かかって、腹の中の物をなんとか全てひねり出してしまった。その時はそう思った。それが夜中の1時頃。

 三時ぐらいに目が覚めた。どうも寒気がする。布団が全く暖かく感じず、ホットカーペットに掛け布団を移して温度を全開にした。がたがた震えながら寝ていると、全てひねり出したはずの腹の中にまだ何か残っている。それでトイレに行った。妙な感触だったので便器の中をのぞき込んで驚いた。血便とかいうようなレベルではなく、純粋な「血」が結構な量吹き出ていた。

 こりゃやばいと思った。このままだと朝まで持たないかもと思った。明らかに熱は上がりつつあってがたがた震えていた。すぐに救急病院にあちこち電話をかけて、当直医のいるところを探し当て、飛んでいった。当直医は最初、切れ痔のようなものと思ったらしい。それでトイレに行ってサンプルをとってきて見せたところが、すぐにCTをとることになった。点滴が刺され、CTの結果が出た後に、入院が決定した。

 入院初日は、座って入院のための書類を書くのもつらいぐらいだった。解熱剤を飲んで点滴しているにも関わらず、熱は下がらなかった。6回ぐらいトイレに行ったが、すべて「血」そのものが吹き出た。しばらく絶飲食することになって、水分も栄養も全て点滴から摂取し、ただ寝ているだけの状態が2日ほど続いた。時々トイレに行くのに、点滴をがらがらころがしていった。

 二日目には下血の回数も減って、医者から明後日から流動食と言われた。「まだ血が出ているのに」と思ったが、翌日には医者の読み通り血は止まった。流動食を食べた直後に久しぶりに「普通の便」を見ることができ、正直「生き延びたなあ」と思った。

 一週間経って、内視鏡で最終チェックをすることになった。大腸はもちろん小腸までずっとチェックしてもらった。準備のために下剤を一リットルも飲む羽目になったが、自分の腸の中をリアルタイムで備え付けのモニターでのぞくことができ、なかなか面白い体験だった。

 診断結果は「虚血性大腸炎」。

 大腸が腹の中を大きくぐるっと回っているが、横行結腸というおなかの上の方の部位に傷が入っていた。写真をもらってきたが、はっきりくっきり治りかけの白っぽい傷跡が4カ所ぐらいある。ストレスだとか単に経年劣化だとかでもろくなった腸壁が一気に剥がれ落ちて出血したらしい。つまり、最初に感じた胃の下あたりの刺すような痛みがまさにそれだったのだろう。写真を見る限りは「何かがひっかいていった跡」のようにも見える。

 が、それ以外には悪性ももちろんとしてポリープの類も一切なかった。それまで内視鏡の類を入れたことがなかったので、結果として豪華な人間ドックにいけたような感じになった。

 退院する日に朝トイレに行くと、茶色い普通の便に数センチ程度の白っぽい物が混ざっていた。医者に尋ねてみると、治りかけた傷跡のかさぶた状の部分がはげ落ちたものだろうということだった。

 

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2016年12月31日 (土)

今年一年(もしくは人生そのもの)を振り返る。

 10年間、最低一ヶ月に一回は書き続けてきたブログをとぎれさせるのはもったいないという、消極的な理由でパソコンの前に座っている。

 書くことはそれなりにあるはずなのだが、大晦日ということもあるので、それらしく今年一年(もしくは人生)を振り返ってみる。

 やはり、50歳を過ぎたということもあり、少しずつ考え方が変わりつつあるとは思う。まず、いろいろなことに期待しなくなってきている。これは別に投げたということではなく、ありのままの自分を少しずつ受け入れ始めているということだ。まあ自分でそれを望んだというより、そういう考え方になるしかなかったというべきだろうが。

 まずさすがに家庭を持つことを諦めた。これはもう自業自得で、もてるタイプでも何でもないくせに見合いの一度もしなかったのだから、ある意味確信犯ではある。うちの親には気の毒だが、うちの血筋は私の代で終わりだ。

 年末にこんなことを書いているのは、一つにはさすがに残りの人生を考え始めたからだ。

 夏に人間ドックで24時間心電図というのをとった。その時、「夜中に心臓が5秒間止まっていた」と言われた。別の病院で精密検査をしろといわれていってみたところが、あれやらこれやらの検査を受けた結果、特に異常はないと言われた。元の病院にもそう報告しておくと言われた。しかし、さすがに自分の残り人生について考え始めた。ある時突然消えてなくなってしまうこともあるんだなあと。まあ誰しもいつかは感じることなんだろうけど。

 残りの人生をどう生きるべきか。

 仕事は真面目にやっているつもりだし、完璧にはほど遠いものの、常に自分の限界近くで勝負はしていると思う。この部分はこれからも変わらないはずだ。
 日常生活もすでに十分に楽しんでいる。30年以上プライベートの時間全てを自分のためだけに使って来たのだから、考えてみれば贅沢な話だ。

 だから、今までとこれからと違う部分があるとしたら、結局今まで以上に自分の人生を大事にしようというぐらいか。様々な物事に対する妙な期待を捨てて。

 「期待すること」と「大事にすること」はやはり違う。見方によっては正反対でさえある。

 最初に書いたように、既に自然にそういう生き方になりつつあるのだから、別に意識的にそうする必要さえないかもしれない。 

※ 期待しないというのももちろん自分自身についてであって、他人の人生に関するものではない。特に世話をしている生徒たちの人生については、これまで同様、全力でサポートしていこうと思う。まあつまりこれまでとなんにも変わらないわけだが。

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2016年8月26日 (金)

洞穴日記、10周年

 10年前の2006年8月26日に、この洞穴日記がスタートしました。

 なんというか壮絶な10年間でした。

 これのおかげで不思議な人生を送りつつあります。

 これがなかったら本を2冊も出版しようなんて思わなかったですね。

 まだまだ「戯言」には続きがありそうです。

 いけるところまでいってやりましょう^^ 

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2016年6月19日 (日)

論理的思考能力

 ちょいと前にツイッターでつぶやいたもののコピーだが、最近ブログをさぼり気味だし、記録に残すという意味でもこちらに写しておこうと思う。前に似たようなことを書いたような気もするが…


「論理的思考能力は、いちいち強調するまでもなく大事なものに決まっている。それは「1+1=2 が大事なんです」と言っているに等しい。しかし「論理的思考能力だけが大事で、それ以外は必要ない」ということになると話が違ってくる。これは明らかに絶対空間から離れられない思考に近似する。

数学はそれ自体の外にはそれを証明する根拠を持たない。つまり厳密に言えば「1+1=2」自体を証明することはできない。つまり数学は、ある仮定的な取り決めの中でなにが言えるかについての膨大な量の論考であって、それ自体が真実というわけではない。

その破れ目が、三体(多体)問題などによって現れるが、ヒトは大抵見て見ぬ振りをする。「論理」の枠の中に閉じこもってしまえば、悩む必要がないからだ。

絶対空間も同じものだろう。本当の意味での相対空間について考え始めるとヒトは必ず混乱し始める。それは、視点を生み出す主体、つまり自分自身を消し去ることに他ならないからだ。

論理的思考能力ばかりが強調されるのも、同じ構造だろう。つまりヒトは自分が世界認識の主体であることから離れられず、それが他者にとっても同じであると信じ込み、それを他者と共有できないことに苛立ち、それを相手に一方的に押し付けようとする。自分の立っている場所が「絶対」であると思い込む。

「論理」は当然大事だ。しかし、その背景にある枠組みを含めて相互主観的にすり合わせ、変革していく視点を持たない「論理」は、単に意思伝達のためのツールにしかならない。それは予定調和的な発想しか生み出さない。最初からそれで構わないというのならわたしゃもう語る言葉を持たないが。

というようなことをこれまで世に送り出した本に書いたわけで。まあ間接的なところもあるけど。全文ただで読めますので、興味のある方は「熊男の住処」でどうぞ。」

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2016年4月10日 (日)

文体について

 私は大体4つぐらいの文体を使い分けているつもりだ。柔らかいやつから硬いやつまで。柔らかい方が順番に説明しよう。

① ツイッター用文体

 柔らかすぎでふにゃふにゃな文体。日常会話でもそこまで適当な言葉遣いはしないだろうというぐらい適当。ツイッターは書き直しが出来ないので、基本的に誤字脱字の修正もしない(できない)。まあだからこそツイッターは気楽にストレス解消的な内容を書くことができるんだけど。「まあ」を連発するのが口癖(書き癖)。

② ブログ用文体

 結構ふにゃふにゃ。内容的にはそれなりに硬派なことも書いているように思うけど、意識的に力を抜いて書いている。その分、「根拠は薄いけど観点としては重要なこと」とか「シビアすぎで冗談っぽさというオブラート無しでは書けないこと」とかを書きやすい。文体にこだわらない分、逆に「テンポの良さ」や「わかりやすさ」を演出しやすい。

③ ふつうの文体

 通常の文体。極力無駄を省いて、話し言葉を避け、特徴をそぎ落とした、言わば公用的な文体。『時間認識という錯覚』とかはこの辺りの感覚で書いている。(あの本はもとがブログ記事だから、やや元の文体の影響が残っているけど)

④ 論文調の文体

 今回の出版予定の『現実を読み解くための国語教育』は、これぐらいのレベルのつもりで書いている(が、やや③とかの影響もあるか)。自分が持っている文体では最も硬い。大学院で「自己認識を促す国語教育の研究」を書いていた時にお世話になった先生方に鍛えられたそのまま。

 文体なんてものはどれが良いとか悪いとかではなく、時と場合によって使い分けて当然なものだ。むしろいろいろな文体で書いてみて初めて、どう使い分けるべきかが見えてくる。実際時々、何を書いているのかさっぱり分からない「論文調の文体」なんてのも見かける。本人は真面目に書いているんだろうから、そんな感想を直接伝えることなどないが。

 

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2016年3月13日 (日)

「戯言学」

 もしそんな名前の学問があったとしたら、初代教授は私だろうか。(エイプリルフールフライングPART2だな)。

 とにかく徹底して、物事の裏を読む。そういう学問である。

 具体的には、まず未解決問題をずらっと並べる。そして、その間に関連がないかを直感だけを頼りにあれこれ突っついてみる。つまり「行間」ならぬ「問題間」を読むのだ。

 そもそも、未解決であるという点だけでもそれらは既に共通点を持っている。裏でつながっていてもなんら不思議なことではない。そして、一つ重要な観点を見出せば、それらの結び目がつるつるっと解けるかもしれない。

 実はそういう思考は、「虚構テクスト」、つまり文学の読解の際に用いられるものと同じタイプのものだ。

 物事を筋道立てて考えるのはもちろん大事だ。しかし、正直本音を言えば、世間一般で言われている「論理」は、複雑なものを複雑なまま受け止めることを否定しているように思えてならない。物事を一つのシンプルな「型」に押し込んでしまえば、思考停止してしまえる。その方が頭を使わなくて良いから楽である。
 さらに他人にその「型」を押しつけてしまえば、常に自分の土俵で物事を語ることができる。その条件での論争は、全戦全勝間違いなしだ。もちろんそのような論争からは何の進歩も発展も見出せないだろうが。つまりそれは一種のピアプレッシャーである。

 戯言学、つまり虚構テクスト的思考は、「型」を持たない。時には論理性さえ無視する。最終的には複雑なものを複雑なままつかみ取ることが目標である。
 しかし、つかみ取ったことを他者に伝える際には、「論理性」の世話になる必要がある。つまり、それらはどちらが大事だというようなものではなく、相補的なものだ。まあ当たり前だが。

 虚構テクスト的思考は、試験とかにはむかない。何でもかんでも試験すればいいというようなものではなかろう。まあいわゆる「小論」は、ある程度そういった思考のレベルを試すことが出来るかもしれないが。

 戯言学は、純粋に「遊び」であるところに意味がある。遊び心というものは勉強に限らず大事だろう。

 というようなことを、もうすぐ出版する予定の本に書いている。

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2016年3月10日 (木)

人工知能がもたらすもの

 ちょいとフライング気味のエイプリルフールである。

 本物の人工知能、ヒトの意識そのものに近い人工知能が開発されたらどんな世の中がやってくるか。

 先ず人工知能を開発した会社なり国家なりは莫大な利益を手にするはずだ。人工知能はつまり人件費ゼロの労働力ということだろうから、そんな会社なり国家なりに対抗できる組織など存在するはずがない。ロボット兵士だとかいったネガティブな話題以前に、そもそも無限の労働力を手に入れた国や会社とは競争にもならない。

そうすると一国なり一社なりが世界の富を独占する、なんだか根暗なSFのような世界がやってくるかというと、実際にはそうはならないと思う。
 そもそも人件費ゼロで無限の労働力なんて永久機関のようなものだ。「富」という言葉が持つ「蓄積」の要素が意味を失うだろう。そうすると自然に「富」は、急激に、無制限に、ヒト全体に行き渡り始める。

 そして、誰しもが仕事さえする必要もなく、食っていける時代がやってくる。そうすると、今の世の中で、ニュース記事になるような事件のほとんど全ては消えてなくなるはずだ。

 その代わり、そんな世の中がやってきたら、スポーツや芸術以外の仕事はほとんど意味を失って、ヒトは自分たちが何をやって生きていくべきか悩み始めるだろう。そういう時代が何百年も続く。

 しかしその、長いぐうたら生活の果てに、ヒトは自分たちの本当の存在理由、存在目的をつかむはずだ。

 それがなんなのかなんて、私にもさっぱり見当がつかないが、そこまでの道筋についてはけっこう確信を持って語ることが出来る。そんな気がする。

 

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2016年3月 5日 (土)

全てのヒトが幸せになること-ヒトの劇的な発展のための閾値-

 いつも思うのだが、ヒトはまだその種としての可能性のほんの一部しか実現できてないと。

 自分たちの「心」がどのように機能しているのかさえ明らかになっていない。
 物質がどのように存在しているのかさえ明らかになっていない。
 時間とは何なのかさえ明らかになっていない。
 自分たちが生きている宇宙がどんな構造なのかさえ明らかになっていない。
 自分たちが生きている地球から飛び出すこともできない。
 なにより
 全ての人々が幸せな一生を送る方法さえ明らかになっていない。

 まあ、間違いなく、ヒトの歴史の中では現代なんてまだまだ「原始時代」だ。
 こんな時代がヒトの最終到達点であるはずがない。

 それでも、ルネッサンスさえ、産業革命さえかすむぐらいに、爆発的に発展する可能性を現代社会は内包し始めているとは思う。

 で、例によって「戯言」ではあるが、ヒトが劇的に発展するための条件を考えてみることにした。

(条件①) 誰でもどのような情報にでもアクセスできること。

 これはインターネットとGoogleさんのおかげで、かなりの部分実現しつつある。「本当に大事なことはネット上では語られない」とよく言われるが、それでもネット以前に比べればはるかにましな状況であろう。なんとか細胞がそうであったように、生半可な嘘ではネット時代の人の目をくぐり抜けることはできまい。

(条件②) 全てのヒトが仕事をしなくても食っていける文化を築くこと。

 別に怠け者を奨励しているわけでなく、このような条件があって初めて、純粋に「真実であるかないか」がさまざまな局面において判断基準になるだろうからである。ヒトはなぜ他者から認められようとするか。それはプライドとか承認欲求とかもあるのだろうが、それ以上に食っていかなければならないからであろう。だからヒトは時に「捏造」したり「剽窃」してまで、自分の立場を守ろうとする。時には自分の知り合いの立場を守ろうとする。「衣食足りて礼節を知る」だ。だれもが食うのに困らない文化を築いて初めて、真の文化的な発展が始まるだろう。

 それは可能だと思う。

 人工知能の発明が、無限の労働力を生み出し、全てのヒトを食うに困らない状態にする。

 人工知能がヒトの仕事を奪うのではないかなどとよく言われるが、ほとんど働く必要がないぐらいに豊かな社会が実現すれば、そもそもそんな心配は無用になる。その時初めて「真実」だけが価値を持つ世の中がやってくる。

 そのような社会では、他者から承認されるために徒党を組む必要もない。「捏造」や「剽窃」などの危険をわざわざ冒す必要はない。膨大な資金を投入したあげく、結局無駄と分かった研究でも、それを隠蔽するためにさも成果があったような虚偽の報告をする必要がない。

 全てのヒトが幸せになる。それが実現したとき初めて、ヒトは全てを理解して、今とは全く異なる存在に進化するに違いない。

 

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