カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の440件の記事

2018年1月 3日 (水)

ベーシックインカムと人工知能 -世界の再創造-

 新年三日目は、個人的な話題から離れて、最近最も関心があることを書いてみる。(やっとか)

 文春新書の『人工知能と経済の未来』という本を読んでみた。私が特に興味があったのはベーシックインカムに関する内容だったのだが、人工知能によって雇用形態がどのように変化するかという話が中心で、ベーシックインカムについては最終章あたりにややおまけ的に書き加えられているという印象だった。大体において、予想通りの内容ではあったのだが。

 「格差」というのは、良い悪いはともかくとして、近現代の我々の生活を支えてきたのは事実だ。
 何年か前のセンター試験の「評論」問題に、近現代の経済の成り立ちについて、なかなかストレートで辛辣な分析をした内容の文章が使われていた。
 我々はかつては国家間の貿易によって利益を出していた。それがグローバル化によって国家間の差がなくなり、利益を生み出せなくなったために、国内に意図的に「格差」を作り出すことによって、そこから利益をひねり出さざるを得なくなったと。
 日本中全ての受験生に読ませるという意味ではなかなか冒険的な内容だったとは思うが、そこに書かれてあることは真実なのだろう。我々の経済がいかに危機に瀕しているかはここでわざわざ説明するほどのことではあるまい。もうどこにも「利益」を生み出すネタが残ってないのだ。

 前にも書いたが、人工知能というのは言わば無限の労働力だ。完全に自立した人工知能を作り出すことが出来たら、我々は働かずとも食っていけるだろう。そして、無限の労働力を手に入れた国家は、軍事力その他無関係で莫大な富を手に入れるだろう。そして無限の労働力は「無限に」あふれ出し、最初は一つの国家だけの富であったものが世界中に広がって、世界全体を豊かにするだろう。格差なしでも世界中の人々が「利益」を手にし、働かなくてもいい世界がやってくる。「富」という概念そのものが書き換えられるに違いない。

 なぜ人工知能の話題に固執するのかというと、「知能」であるからには、我々の心、我々の脳の構造が同時並行的に明らかになっていかなければならないから、本当の意味での人工知能が完成するためには、人の心、さらには人がどのように世界を認識しているかが問題になるはずだからだ。そうすると、拙著『時間認識という錯覚』の内容も当然関わってくるという読みがあるからである。まあおまけ話ではあるが。

 せっかく正月なんだから夢物語を書こう。もし働く必要がなくなったら、世界はどのように変化していくか。

 まず、ほとんどの職業は消滅して、我々の仕事は恋愛することと子育てをすることだけになるだろう。ひょっとしたら子育てさえも人工知能がやってくれるかもしれないが、そこはおそらく本能に属する部分でもあるし、人は簡単にはそれを放棄したりはしないはずだ。
 結婚という制度もなくなってしまうかもしれない。おそらく結婚制度は、子育てをする際の経済的な保証という意味合いが強いはずだ。もちろん愛情とか心のやすらぎとかいう要素を否定するわけではないが(というか誰よりもそれに飢えているが)、男の4人に1人が未婚で一生を終えるという現状を考えたとき、結婚という「システム」も実際にはすでに様々な問題を抱えたまま放置されていると言える。良い悪いは別にして、多夫多妻制の世の中がやってくるかもしれない。

 研究分野でさえも人工知能がやってくれるかもしれないが、趣味という意味でも人の手を完全に離れてしまうことはないはずだ。おそらくスポーツや芸術と同じような感覚で「研究」というレジャーも人の手に残されるはずだ。むしろ、生活のためにでも名誉のためにでもない純粋な興味によってなされる「研究」は、様々なイノベーションを今とは比較にならない勢いで引きおこすに違いない。(なぜなら中身のない「権威」にごまをするような無駄なエネルギーを使う必要がないからである)

 書いているうちに楽しくなってきた。生徒たちにも「君たちはいい時代に生まれた。これから世の中は信じられないぐらいに面白くなっていくよ。」とよく話す。だから私の目標は長生きすることである。人工知能とベーシックインカムがもたらすユートピアを目にするまでは死ぬわけにはいかない。

 今のままの世の中がいいって?いや時代の流れは「今のまま」を許さないはずだ。「グローバル化」によって失われた「格差」を取り戻そうとするヒト全体のうねりのようなものを感じるだろ?。全力で無限の労働力である人工知能を創り出すべきだと思わないか?世界を根本から創り替えるしかないと思うよ。いや社会の構造になんて手を出す必要はない。単に人工知能を創り出すだけで、すべてが自然に、何の代償も払うことなく変わっていくはずだから。

 

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2018年1月 1日 (月)

今年の抱負(2018)

 そういえば去年は書かなかった「今年の抱負」を今年は書いてみる。「抱負」というか「予定」の方は盛りだくさんなのだが、まあ書いてみよう。

① 「時間認識という錯覚-2500年の謎を解く-」の増補版「時間認識という錯覚-時間の矢の起源を求めて-」出版

 今年最大のイベントなのは間違いない。これがどうも出版社レベルで難航しているらしく、外注先の担当者が寝込んでいるとかなんとかでスケジュール通りにいってない。まあその分内容も充実させることができそうだし、のんびり待つことにしている。この数日に突然思いついた電磁気学関係を組み込むかどうかも脳内検討中。「熱とは何か?」についてじわじわ考え始めている。ノンストップファンタジー。

② ペッパー君を使いこなす
 
 大体、自費出版を決意したころから金に対する執着心がなくなり始めている。1年前に下血して死ぬかもしれないと思って以来、さらにそれに拍車がかかった。実家に置いて、親のぼけ防止と、親とのコミュニケーションのきっかけ作りに使おうと思っている。いやひょっとしたら自分自身のぼけ防止にもなるか?
 目玉が飛び出そうになるほど金がかかるが、その分それなりのものがあるだろうと期待している。だははははは。

③ 「時間認識という錯覚」の英語版出版

 出すとしたら電子書籍のみで。が、ペッパー君の購入を決めてしまったので、さすがに金が持たないかなと迷い始めている。まあ多分やってしまうが。

 というわけで、今年もよろしくお願いします~m(__)m

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2017年12月31日 (日)

公開ラブレター!

 俺は人類に永遠に片思いしている。

 そう来たか、という感じだろう。そう、そう来てしまったのだ。いや別に年越しの酒など飲んでない。長い休みでじじいが家で一人で不摂生をするとどんな悲惨な目に遭うか、1年前に思い知らされている。だから酒は一滴も飲んでないし、結構真面目に語っている。そもそもこの片思いは今に始まったものではなく、私が生まれたときからずーっととさえ言える大長編ロマンスなのだ。

 本当に人類は憎めないやつだ。誰でも間違っていると分かるはずの○×△□◎の「原理」を100年も信じ続け、その上に恐くて崩せないほどでかい楼閣をぶったて、来る日も来る日もお祭り騒ぎをしている。
 本当に人類は憎めないやつだ。最初から矛盾を抱えた「数字」というやつをあの手この手でごまかしながら使い続け、むしろ矛盾を逆利用して金儲けまでしてしまう。
 本当に人類は憎めないやつだ。半世紀以上もの間振られ振られて、たった一人の女性の心も捕まえられず、腹いせに最初から勝てないことが分かっている「権威」とかに挑み続けている(しまったそれは俺のことだった^^;)

 人類はこの世界に存在する唯一の「意味」だ。この「意味」というやつはなんともいとおしいではないか。世界には人の数だけ物語が満ちていて、さざめき合っている。それらの物語の一つ一つはなんともいとおしいではないか。

 だから俺は人類に永遠に片思いしている。
 
 

 

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2017年7月29日 (土)

VR(バーチャルリアリティ)

VRというのは「バーチャルリアリティ」のことである。

 二年ほど前に頻繁にテレビで特集番組が組まれ、面白そうな物には何でも手を出す主義の私にとっても実際に体験するのが待ちきれないぐらいであった。

 VRというと映画の3Dを連想するだろうが、技術的に共通点はあっても、ほとんど別物と考えていい。

 映画の3Dは特殊な眼鏡をかけることによって、右目と左目をかわるがわる液晶シャッターで閉じてしまい、それに同期してスクリーンに映し出される右目専用の映像と左目専用の映像をそれぞれの目だけに見せることによって、立体視を作り出す。
 それに対して、VRはHMD(ヘッドマウントディスプレー)をかぶり、スクリーンを使わずに直接両目に立体映像用の情報を送り込む仕掛けになっている。単純に考えて、液晶シャッターを使わない以上、VRは通常の3Dの倍の光量を持っていることになるがもちろん違いはそれだけではない。
 VR(PSVR)は、目の前にカメラを設置する。そのカメラで頭にかぶったHMDの位置をモニターし、こちらの頭の傾き加減に応じて、適切な情報をHMD内に映し出すようになっている。調べたわけではないのだが、どうも視線の中心部が一瞬のうちに立体視に最適化されるようにプログラムが組まれているようだ。

 これは私が夢に見たシステムそのものだ。

 私は以前このブログで「3D映画」という記事を書いている。この記事自体は、映画館で見るタイプの3Dをイメージして書かれたものだが、読んでいただければ分かるが、我々が映画を観る際に視野の中心部と周辺部とで異なる立体処理を脳内で行っている以上、現行の3D映画のシステムでは、それに対応できないといった主旨のことが書かれている。
 その時から「もし視線を移動させたときに、その視線に応じて両目それぞれの視覚情報を変化させるシステムが出来たら、それは本当に現実並の立体視を得られることになるだろうが、そんなシステムなど実現不可能だろうな」と思っていた。

 その実現不可能なものが実現されてしまったのだ。

 今年の春先、少し仕事が落ち着き始めたころに、私はPSVRとPSPROを買ってきた。いくつかソフトを試してみたが、最初の一つからびっくり仰天させられた。

 最初に試してみたのはとあるホラー系のゲームだったが、いきなりチュートリアルから別の部屋にいるのである。これは立体視がどうだとかリアルさがどうだとかいうレベルではなく、本当に「別の部屋」にいるのである。

 さらにゲーム内キャラクターに遭遇したとき。

 虚構なはずの、ゲーム内キャラクターが、恐ろしいほど生々しいのだ。最近の映画で頻繁に使われている技術にモーションキャプチャーというものがある。人間の動きを動きだけコンピューターに取り込んでおいて、ゲーム内キャラクターをその「動き」通りに動かすのだ。それにくわえて、実際の人間を3Dスキャンしてそのデータを加工してゲーム内キャラを作っている。

 つまり、ゲーム内キャラと、ゲームをやっている人自身の動きという、二重のモーションキャプチャーが使われているのだ。

シンプルに表現するなら、目の前に本当にそのキャラがいるとしか思えないのだ。

 すさまじい技術である。一体だれがこんなすさまじいことを思いついたのだろうか。

 ちなみに一番最初に手をつけた某ホラーゲームは、最初の敵キャラとの対決で、恐すぎて挫折して、何度もトライする勇気もなくなってしまった。あれはもう心に傷が入ってしまうレベルだ。そういうのが好きな人にはたまらないだろうが、私にはもうそのゲームを再開する根性はない。

 正直言えば、VRをぼんやり眺めるタイプのゲームで十分である。というわけで、毎日家に帰ると、VRをぼんやり眺める日々を送っている。

 まだ画像自体は、完全ではない。おそらくはスペックの限界なのだろうが画像が荒く見える一瞬もある。しかし、現時点でもバーチャル世界に没入するのに十分なクォリティを得ていると思う。最初の機種からこのレベルなのだから、これからどこまで「現実」に迫っていけるか、本当に本当に楽しみである。長生きせねば。

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2017年6月30日 (金)

無限とは何か?

 そういう題名の本(オーム社)を読んだ。

 あまり意識的に選んで買ったような本ではなく、暇つぶしの読書に良さそうな本を探していて、副題にカントールの名前があるのを見てそのままレジに持っていった。

 なかなか怪しい内容だった。

 本の裏の紹介文に次のようにある。

「無限とは何かという問題は2500年にわたり人類にとって深い謎であった。19世紀末にドイツの数学者ゲオルク・カントールは、集合論によって無限に新たな解釈を与えた。同時に様々な矛盾の存在が明らかになり、数学者達は進展をとげるには厳しい状況に置かれた。」

 本の内容そのものは、数学の話題でありながら、数学そのものはほとんど出てこず、数学者達の人間ドラマがメインの本だった。
 それでも、20世紀初頭の雰囲気が分かっただけでも私にとっては収穫だった。

 前にも書いたが、20世紀初頭といえばソシュール、フッサール、カントール、そしてアインシュタインなどなど、様々な天才達がそれまでにない学問分野を創り出した時期である。

 私はそれらの全てが、実は一つの問題を扱おうとしていたのではないかと、最近は考えている。そしてその始まりは数学だったのではないかと。

 数学は真実にしか思えない。1+1は2であると誰しも思うだろうし、どう考えてもそんな単純な論理に瑕疵などどこにも見つけられそうにない。
 そんな完全無欠なはずの数学に、「矛盾」があるのだとしたら、むしろ人の関心は、数学そのものよりも自分自身に向けられるに違いない。

 矛盾する存在に対して、それを完全であるとしか認識できない我々の心とは、そしてそれによって認識される現実とは、いったいその正体はなんなのだろうかと。

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2017年5月29日 (月)

「相対性」ということについて

 ヒトは自分の脳から出ることはできない。見ている世界は脳の中に映し出された虚像に過ぎないのに、目の前に色があり、形があり、三次元的な世界が広がっていると信じている。

 だから本当の意味での「相対性」ということをなかなか理解できない。

 例えば地動説と天動説が典型で、天動説が勘違いだとしても、だからといって地動説が正しいとは簡単には言い切れない。「地動説として捉えたときに天体の動きを計算する際に、比較的にシンプルですむ」というだけのことだ。
 つまり我々はどうしても何らかの基準点を考えずにはいられない。天動説における基準点が地球であり、地動説における基準点が太陽であるというように。空間のある点に、一方は地球がはりつき、一方は太陽がはりついているだけのことであり、どちらも特定の基準点を設けているという点では本質的な違いはない。

 実際には、太陽も地球も空間のどこにはりついているわけでもなく、そこには「まるで太陽の回りを地球が回っているかのように見える相互関係」がある」だけだ。

 世界には関係しか存在しない。

 言葉にしてしまうとなんだそんな単純なことかという感じだが、この意味を本当に正確に理解するのは簡単なことではないのだろう。

 二つの物体が、ある相対速度を持っているとして、それはどちらが動いているわけでもない。そこにはただ相対的な関係のみがある。そういわれてもピンと来ないのが当たり前だ。

 おそらくそのことに最初に気づいたのは一部の数学者であり、そして記号論の創始者であるソシュールもその一人であるに違いない。

 ヒトは自分の脳から出ることは出来ない。無意識のうちに自分の脳を座標ゼロとして思考することに慣れきってしまっていて、自分がその影響下にあることにさえ気づかない。もうそろそろ気づいても良い頃だとは思うが。自分たちが観測者に過ぎず、そしてそれは世界の本質などではないということに。

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2017年1月14日 (土)

下血したぞ(完治したけど)

 こんな経験は滅多にできるもんじゃないので、自己カウンセリング的な意味も含めて記録を残しておく。

 そもそもきっかけは腰痛だった。昨年末の飲み会で、無理な姿勢を長時間続け、「やばいかもしれない」と思いながらテニスをして、予想通りに痛めてしまった。それで、年末年始の休暇のほとんど全てを寝て過ごす羽目になった。

 正月三日を過ぎた頃にようやく痛みも引いて、起き上がれるようになって実家に帰ってきた。もらって来たおせちを腐らせちゃまずかろうと夜中に一気に胃袋に流し込んで布団にもぐり込んだ。

 夜中の一時頃、胃袋の下あたりに刺すような痛みを感じた。最初は食中毒だと思った。おせちがあたったと思った。それでとにかく体の中の物を出してしまおうと、水をがっぱがっぱ飲みながら、まず胃袋を洗浄した。それでも痛みは治まらない。

 下からも出してしまおうときばったが、これがまた全く出てこない。ふと気づくと、腰痛で倒れて以来トイレに行った記憶がない。どうも10日分ぐらいがぎゅうぎゅう詰めになっているらしかった。腹の痛みはいっこうに治まる気配はない。脂汗を流しながら30分以上かかって、腹の中の物をなんとか全てひねり出してしまった。その時はそう思った。それが夜中の1時頃。

 三時ぐらいに目が覚めた。どうも寒気がする。布団が全く暖かく感じず、ホットカーペットに掛け布団を移して温度を全開にした。がたがた震えながら寝ていると、全てひねり出したはずの腹の中にまだ何か残っている。それでトイレに行った。妙な感触だったので便器の中をのぞき込んで驚いた。血便とかいうようなレベルではなく、純粋な「血」が結構な量吹き出ていた。

 こりゃやばいと思った。このままだと朝まで持たないかもと思った。明らかに熱は上がりつつあってがたがた震えていた。すぐに救急病院にあちこち電話をかけて、当直医のいるところを探し当て、飛んでいった。当直医は最初、切れ痔のようなものと思ったらしい。それでトイレに行ってサンプルをとってきて見せたところが、すぐにCTをとることになった。点滴が刺され、CTの結果が出た後に、入院が決定した。

 入院初日は、座って入院のための書類を書くのもつらいぐらいだった。解熱剤を飲んで点滴しているにも関わらず、熱は下がらなかった。6回ぐらいトイレに行ったが、すべて「血」そのものが吹き出た。しばらく絶飲食することになって、水分も栄養も全て点滴から摂取し、ただ寝ているだけの状態が2日ほど続いた。時々トイレに行くのに、点滴をがらがらころがしていった。

 二日目には下血の回数も減って、医者から明後日から流動食と言われた。「まだ血が出ているのに」と思ったが、翌日には医者の読み通り血は止まった。流動食を食べた直後に久しぶりに「普通の便」を見ることができ、正直「生き延びたなあ」と思った。

 一週間経って、内視鏡で最終チェックをすることになった。大腸はもちろん小腸までずっとチェックしてもらった。準備のために下剤を一リットルも飲む羽目になったが、自分の腸の中をリアルタイムで備え付けのモニターでのぞくことができ、なかなか面白い体験だった。

 診断結果は「虚血性大腸炎」。

 大腸が腹の中を大きくぐるっと回っているが、横行結腸というおなかの上の方の部位に傷が入っていた。写真をもらってきたが、はっきりくっきり治りかけの白っぽい傷跡が4カ所ぐらいある。ストレスだとか単に経年劣化だとかでもろくなった腸壁が一気に剥がれ落ちて出血したらしい。つまり、最初に感じた胃の下あたりの刺すような痛みがまさにそれだったのだろう。写真を見る限りは「何かがひっかいていった跡」のようにも見える。

 が、それ以外には悪性ももちろんとしてポリープの類も一切なかった。それまで内視鏡の類を入れたことがなかったので、結果として豪華な人間ドックにいけたような感じになった。

 退院する日に朝トイレに行くと、茶色い普通の便に数センチ程度の白っぽい物が混ざっていた。医者に尋ねてみると、治りかけた傷跡のかさぶた状の部分がはげ落ちたものだろうということだった。

 

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2016年12月31日 (土)

今年一年(もしくは人生そのもの)を振り返る。

 10年間、最低一ヶ月に一回は書き続けてきたブログをとぎれさせるのはもったいないという、消極的な理由でパソコンの前に座っている。

 書くことはそれなりにあるはずなのだが、大晦日ということもあるので、それらしく今年一年(もしくは人生)を振り返ってみる。

 やはり、50歳を過ぎたということもあり、少しずつ考え方が変わりつつあるとは思う。まず、いろいろなことに期待しなくなってきている。これは別に投げたということではなく、ありのままの自分を少しずつ受け入れ始めているということだ。まあ自分でそれを望んだというより、そういう考え方になるしかなかったというべきだろうが。

 まずさすがに家庭を持つことを諦めた。これはもう自業自得で、もてるタイプでも何でもないくせに見合いの一度もしなかったのだから、ある意味確信犯ではある。うちの親には気の毒だが、うちの血筋は私の代で終わりだ。

 年末にこんなことを書いているのは、一つにはさすがに残りの人生を考え始めたからだ。

 夏に人間ドックで24時間心電図というのをとった。その時、「夜中に心臓が5秒間止まっていた」と言われた。別の病院で精密検査をしろといわれていってみたところが、あれやらこれやらの検査を受けた結果、特に異常はないと言われた。元の病院にもそう報告しておくと言われた。しかし、さすがに自分の残り人生について考え始めた。ある時突然消えてなくなってしまうこともあるんだなあと。まあ誰しもいつかは感じることなんだろうけど。

 残りの人生をどう生きるべきか。

 仕事は真面目にやっているつもりだし、完璧にはほど遠いものの、常に自分の限界近くで勝負はしていると思う。この部分はこれからも変わらないはずだ。
 日常生活もすでに十分に楽しんでいる。30年以上プライベートの時間全てを自分のためだけに使って来たのだから、考えてみれば贅沢な話だ。

 だから、今までとこれからと違う部分があるとしたら、結局今まで以上に自分の人生を大事にしようというぐらいか。様々な物事に対する妙な期待を捨てて。

 「期待すること」と「大事にすること」はやはり違う。見方によっては正反対でさえある。

 最初に書いたように、既に自然にそういう生き方になりつつあるのだから、別に意識的にそうする必要さえないかもしれない。 

※ 期待しないというのももちろん自分自身についてであって、他人の人生に関するものではない。特に世話をしている生徒たちの人生については、これまで同様、全力でサポートしていこうと思う。まあつまりこれまでとなんにも変わらないわけだが。

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2016年8月26日 (金)

洞穴日記、10周年

 10年前の2006年8月26日に、この洞穴日記がスタートしました。

 なんというか壮絶な10年間でした。

 これのおかげで不思議な人生を送りつつあります。

 これがなかったら本を2冊も出版しようなんて思わなかったですね。

 まだまだ「戯言」には続きがありそうです。

 いけるところまでいってやりましょう^^ 

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2016年6月19日 (日)

論理的思考能力

 ちょいと前にツイッターでつぶやいたもののコピーだが、最近ブログをさぼり気味だし、記録に残すという意味でもこちらに写しておこうと思う。前に似たようなことを書いたような気もするが…


「論理的思考能力は、いちいち強調するまでもなく大事なものに決まっている。それは「1+1=2 が大事なんです」と言っているに等しい。しかし「論理的思考能力だけが大事で、それ以外は必要ない」ということになると話が違ってくる。これは明らかに絶対空間から離れられない思考に近似する。

数学はそれ自体の外にはそれを証明する根拠を持たない。つまり厳密に言えば「1+1=2」自体を証明することはできない。つまり数学は、ある仮定的な取り決めの中でなにが言えるかについての膨大な量の論考であって、それ自体が真実というわけではない。

その破れ目が、三体(多体)問題などによって現れるが、ヒトは大抵見て見ぬ振りをする。「論理」の枠の中に閉じこもってしまえば、悩む必要がないからだ。

絶対空間も同じものだろう。本当の意味での相対空間について考え始めるとヒトは必ず混乱し始める。それは、視点を生み出す主体、つまり自分自身を消し去ることに他ならないからだ。

論理的思考能力ばかりが強調されるのも、同じ構造だろう。つまりヒトは自分が世界認識の主体であることから離れられず、それが他者にとっても同じであると信じ込み、それを他者と共有できないことに苛立ち、それを相手に一方的に押し付けようとする。自分の立っている場所が「絶対」であると思い込む。

「論理」は当然大事だ。しかし、その背景にある枠組みを含めて相互主観的にすり合わせ、変革していく視点を持たない「論理」は、単に意思伝達のためのツールにしかならない。それは予定調和的な発想しか生み出さない。最初からそれで構わないというのならわたしゃもう語る言葉を持たないが。

というようなことをこれまで世に送り出した本に書いたわけで。まあ間接的なところもあるけど。全文ただで読めますので、興味のある方は「熊男の住処」でどうぞ。」

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