カテゴリー「映画・テレビ」の96件の記事

2018年10月13日 (土)

オリエント急行殺人事件

 ケネス・ブラナーが去年リメイクした「オリエント急行殺人事件」は、アガサ・クリスティの傑作推理小説が原作だが、主人公の「おそらく世界一の名探偵」エルキュール・ポアロの人物造形が特にすばらしい。
 彼は朝食の卵の大きさに徹底的にこだわる。朝食用に用意された二つの卵の大きさがそろっていないと食べようともしない。極端に神経質な性格破綻者と言ってしまえばそれまでだが、その違和感を感じる能力によってさまざまな難事件を解決していく。

「私は゛特別な力゛で世の中をあるべき姿で見られる」
「あるべき姿でない場合その不完全さが気になって仕方がない」
「とても生きづらいが犯罪捜査の場合はとても役に立つ」

 自分がエルキュール・ポアロだなんて思ってはいないが、私の直感もたいてい「違和感」から始まる。自然なもの、物理的なものにそれを感じることはない。人の手を介さない世界は「あるべき姿」を保っている。違和感の大半は人為的なものに対するときに生まれる。例えば誰かの会話の内容だとか、毎日iPadを通して眺めている膨大な量の情報、一般に「常識」「定説」と言われている考え方に対する時にさえその違和感が発生することもある。極端な話、特にネット情報については、意図的に「分かる人にだけその情報を伝えようとしている」ように感じることさえある。だから私に極秘裏になにかの事実を伝えようとするのは簡単だ。私が頻繁に巡回するホームページなどに、なぜか優先順位が低いはずの情報を載せたり、同じ情報をほんのわずかだけ通常とは異なる頻度で載せたりしておけばいいのだ。たったそれだけのことで私はその情報がそこにあることの意味を考え始める。

 たいてい違和感には、その正体についての判断もくっついてくる。極端な話、違和感を感じた瞬間にその違和感の答までぽんと一緒に湧いて出る。そしてなぜそう感じたのかを自分の心に問いかけながら一歩一歩「論理的」に探っていく。その判断に特別な知識を必要とする場合は、さらにまたネット情報が役に立つ。そこでも「違和感」が情報の真偽の判断に役に立つ。言わば「違和感」というたいまつで暗闇を照らしながら目的地を探して歩いていくようなものだ。たいまつで明るくなった部分を足場にさらに探索を続けるのだ。

 だがそのように情報を積み重ねた結果として、真実に限りなく近づくことができたとしても、真実そのものを手に入れることはできない。真実というのは結局、人の心が決めるものだからだ。人の心はうつろい続けて一カ所に留まることはない。人の心もまた現実を構成する多数の人の心の間で揺れ動き続けているからだ。私にできるのは、そのゆれる「真実」に限りなく近くよりそって、一緒に揺れ続けることぐらいだ。まるでダンスでも踊るように。

 「オリエント急行殺人事件」でポアロも、うつろう真実に寄り添うことを決意する。真実を手にすることなく。だがそれによってむしろ真実は保たれる。なぜならそれが我々の「現実」そのものなのだから。
 

 

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2018年6月29日 (金)

ベイビードライバー-無意識に引き継いだもの-

超絶ネタバレ注意。

 冒頭部分のカーチェイスが見事で、いきなり物語世界に引きずり込まれる。天才ドライバーである主人公ベイビーは、銀行強盗達の「逃がし屋」としてWRXをまるで猫科の動物が草原を走り回るように駆け回らせるのだ。

 ところで、そのシーンはいきなり全力バックから始まる。銀行強盗達を乗せたスバルのWRXは、そのままバック発進して、180度ターンして、パトカー達との追いかけっこを始める。

 その後も、「バックダッシュ」は何度も何度も繰り返し出てくる。

 二回目の視聴の最中に、ようやくバックダッシュに「意味」があることに気づいた。主人公は幼い時に交通事故にあって両親を亡くしている。車の前部座席に座った両親は、口論に夢中になっていて道路の真ん中で立ち往生するトラックに気がつかなかったのだ。

 彼は事故のフラッシュバックに悩まされ続けながら、車を盗んでは逃走するという行為を繰り返す。全力で後ろに逃げ続ける。自分の心の中の「迫り来るトラックの荷台」から逃げ続ける。当然のことながらその行為は永遠に報われることはなく、彼の心は事故の当日に張り付いたまま成長を止めてしまう。しかし、ある出来事がきっかけとなって、彼はようやく失われた人生、失われた母親への思いを取り戻す機会を手に入れるのだ。

 実際、人生はそういうもんだろう。

 人は誰でも、人生のどこかに気づかないうちに自分の心を置き忘れてしまっている。そして、それを取り戻すチャンスを追い求めているのだろう。

 私自身はどうなのだろうかと考えていて、今まで一度も考えたことのなかった発想が突然頭のなかに浮かび上がった。ベイビードライバーの隠されたテーマにエディプスコンプレックスがあるのは間違いないが、それは当然私にも当てはまるものであるにちがいない。しかし、突然浮かんだ「発想」というのはそんなありふれたものではなかった。

 それは、ひょっとしたら、私は私の父親の無意識の願望を引き継いでいたのではないかということだ。

 私の父親は私と同じ職業だが、その職種としては十分と思われる栄達を果たしている。一方の私は彼の生き方に対して嫌悪に近いものを感じており、まるでその逆を意識的に選択してたどるかのような人生を送ってきた。
 しかし、父親は自分の生き方を本当に望んで選択していたかどうか今から考えれば疑わしいと思われる節がある。父親は実際には自分の人生を嫌悪していて、私はそれを無意識のうちに引き受けていたのではないかと。

 自分のことは自分が一番分かっていないものだ。この「発想」が正しいかどうかなど分かるはずがない。しかし、これを思いついた時の奇妙な安堵感が、一種の自己カウンセリングとして私の心に作用しているのは事実である。そういう意味では真実に近いところにあるのではないかとは思うが。

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2018年1月 5日 (金)

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」-読解力ということ-

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超絶ネタバレ注意。

 正月休みに映画の『コンタクト』を観て、ジェームズ・ウッズがでているのを見て、無性に彼のデビュー作である『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を観たくなって、アマゾンでBDをぽちってしまった。

 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は1984年のアメリカ映画で、当時受験生だった私は、本番入試の旅行中に時間つぶしで観た記憶がある。そういう特殊な時期に観たせいもあるのだろうが、その印象が長く心にとどまり続けた。
 その当時はビデオもビデオソフトもまだ高価だった。大学生の身でそんなものが手にはいるはずがなく、観直す機会もないまま、10年ほど経った。それでも私は、なぜだかこの映画のサウンドトラックを何度も何度聴き続けていた。それだけ印象は深かったのである。
 テレビ放映されたこともあったが、時系列をいじられたバージョンになっており、録画はしたもののほとんど観直すこともなかった。

 最初に観たときは、正直内容をよく理解できていなかった。美しい映像と美しい音楽に、突然不道徳ともいうべき強烈なシーンが代わる代わる挟み込まれている。だからこそ一つ一つのシーンのイメージが際だって強く印象づけられる。
 最初の感想は「なんて理不尽な物語なんだろう」というものだった。ある事情で少年の心のまま成人してしまった主人公ヌードルスは、親友や愛する人に対して常に善意と愛情をもって接していた。それにも関わらず、裏切られ傷つけられる。
 よく創作物のモチーフになるものに旧約聖書の「ヨブ記」というものがある。人は善人であればあるほどむしろ善人だからこそ不幸に見舞われるのだと。聖書が何を我々に説こうとしているのかは私には分からないが、この奇妙なテーゼの持っている逆説的ともいうべき真実性については、感覚的にはわかるような気もする。だからこそ若い私はこの映画に惹きつけられたのだろう。
 特に主人公ヌードルスを捨てて女優を目指すヒロインのデボラと、主人公から愛する女性と財産その他人生の全てを奪った”親友”マックスの存在には、不可解で理不尽だからこそ惹きつけられた。実際、この映画のイメージは「愛と友情の物語」だったのである。あれほどまでに残酷な結末なのに。

 そしておそらくは20年近く間を空けての再鑑賞。ようやく全てを理解した。

 ここから書くことは映画に直接描かれていることではない。だがこう考えると全てのシーンに説得力が生まれてくる。

 主人公のヌードルスは、仲間をかばって殺人を犯し、青春時代を一人牢獄で過ごすことになる。その時、ヌードルスに助けられ、ヌードルスの帰りを待つ親友のマックスは、ヌードルスのためにできることはなんでもやろうと考えたはずだ。その思いで彼は親友の愛する人であるデボラを支えようとする。デボラは「たった一人だけ本当に愛した」ヌードルスを忘れられるはずがない。だからこそ、長い年月を一人過ごすうちに、マックスの優しさにヌードルスの面影を感じ始める。マックスがヌードルスの代わりにデボラを支えようと真心を尽くすからこそ、必然的に彼らは恋に落ちる。彼らはヌードルスという幻を仲立ちにして幻想世界で恋をする。そしてそれが真実の愛に変わっていく。

 そしてヌードルスが帰ってくる。幻想ではない、少年時代のままの「本物」が登場する。

 彼らは「本物」の登場に困惑する。もとより「本物」の存在を否定できるはずがない。しかし肯定することは自分たちの愛を否定することになる。

 これ以降の全てのシーンは、デボラとマックスの、ヌードルスに対する肯定と否定の矛盾で彩られ続ける。

 明らかに愛情を示しながら、誘惑さえしながら、ヌードルスを決定的に否定するデボラ。
 デボラを傷つけられたことに対する復讐として、ヌードルスの人生を奪う決意をするマックス。
 自分とマックスの間に生まれた子供の存在を「下手な演技」で隠そうとするデボラ。
 全てを告白し、ヌードルスに復讐を促すマックス。
 
 特に最後の一つ。なぜマックスはヌードルスに自分に対する復讐を促すのか。それはマックス自身が理不尽な人生に、まるでヨブ記のような人生に、善人でいたかったのに悪人になってしまった人生に、絶望していたからだろう。

 実際、難解だとは思うのだが、それにしてもこんなことを読み取ることができなかったことをいぶかしくさえ感じる。この50年、ひたすら職業としてテクストを読み解き続けてきたことで、読解力が向上したからだと思いたい。

 しかし、現実世界において、人の心は映画以上に複雑なはずだ。今の自分も振り返れば「あんなことも分かってなかったのか」と思うときがくるかもしれない。あと何年生きられるか分からないが、自分がどんなものを読み解くことができるようになるのか、ゆっくりと自分につきあっていこうと思っている。
 
ラスト近くの主人公ヌードルスのセリフ。
「俺の昔話はー もっと単純だ。」
私自身も死ぬまで単純な物語を生きていきたい。
 

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2017年11月26日 (日)

ブレードランナー2049 (超絶ネタバレ注意)

 このブログ記事は、「ブレードランナー2049」及びオリジナルの「ブレードランナー」についての感想なのだが、超絶ネタバレなので未見の人は読まずに退出することをお勧めする。

 まずリドリー・スコット監督ハリソン・フォード主演の、オリジナル「ブレードランナー」についてだが、映画マニアならこの作品について解説する必要はないだろう。カルトSFと呼ぶのがふさわしい作品だ。
 最初に上映されたのは、私が高校の時だった。当時は映画は二本立てとか三本立てとかが当たり前で、そういった「併映」の中に過去のヒット作のリバイバルが混ざり込んでいることも珍しくなかった。「ブレードランナー」もそういった作品の一つで、観たい映画と併映されることが多かったこともあり、複数回映画館で鑑賞した記憶がある。
 当時はビデオデッキもビデオソフトも高価で、もちろん実家にそんなものはなく、逆にその分その場一回限りの視聴ということで、映画館に入ると一つ一つの作品にのめり込んで見ることが出来ていたと思う。

 ブレードランナーには目当てのシーンがいくつかあった。ラストシーンや、ヴァンゲリスの「緑の記憶」「ブレードランナーのブルース」が流れるシーンなどがそれなのだが、その中でも特に息をつめるようにしてみていたのが、ヒロインのレイチェルが髪を下ろすシーンだった。レプリカント(人造人間)であるレイチェルが、自分のアイデンティティの全てが失われた直後に、むしろ一人の人間として目覚める。そのシーンでショーン・ヤングが演じるレイチェルの美しさは、「人間性」の美の側面の極致とも言うべきものだった。

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 そして35年の年月を経て、続編「ブレードランナー2049」。

 この作品においては、ありとあらゆる物が否定されていく。レプリカントであり、超常の能力を持つ主人公 ”K” は、彼に許された数少ない「信じられるもの」のほとんど全てを否定される。
 それだけではない。おそらくは「続編」にオリジナルブレードランナーと同じ感動を求めてやって来た観客は、その「期待」もたたきつぶされる。
 ハリソン・フォード演じる前作の主人公デッカードとヒロインレイチェルの「愛」は、最初からレプリカントの発案者であるタイレルによって仕組まれていたものだったと示唆される。再登場したレイチェルは、一瞬のうちに轟音と共にこの世から消え去る。

 最後に、主人公 ”K” と我々観客に残されたものは何だったのか。

 現代人も ”K” とそれほど立場的に異なっているわけではない。ネットの発達によって、真実が見えやすくなった現代社会は、言い方を変えるなら幻想を抱きにくい時代といってもいい。
 だが、本作の登場人物の一人が語るように、偽りの記憶もまた時に人の心の支えになる。だから、「真実」しか見えないことは、逆に人の心の支えが全て失われることを意味するかもしれないのだ。

 だが ”K” はたった一つだけ信じられるものを見出す。それは「真実を知る」と言うことと、「真実を守る」ということだった。例えその「真実」が自らの存在を否定する内容であってもかまわない。他人の心の中にのみ存在するものであってもいい。それが「真実」であるということだけが、彼にとって「信じられるもの」であり、「守るべきもの」だった。

 おそらく現代文明は、人工知能の開発の過程や、物理学による「存在」の追究によって、自分が生きている世界やそれを認識する自分たち自身の本質を知るだろう。それはひょっとしたら全てが虚構であり幻影であるという結末かもしれない。
 しかし、それでもかまわないとは思う。そこから本当に信じられるものを、我々自身の手で作り上げていけばいいのだから。

 
 

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2016年10月23日 (日)

君の名は。名前とともに記憶はよみがえる。(ネタバレ注意)

ネタバレ超注意^^;

 ツイッターで延々つぶやいていたように、わたしゃ「君の名は。」にはまってしまって、最初に見てから数週間は経つというのに、未だに一日の大半をこれをぼっけーっと考えながら過ごしている。わたしゃ流行っているからって闇雲にそれを追っかけ回すような人間ではない。例えば「アナ雪」はまだ観てなかったりする。

 何しろ興収150億円を超えるような映画だから、当然映画マニアから分析し尽くされているんだろうし、そもそもテーマが(一見)分かりやすく作られているので、分析だ何だってわざわざ書く必要がなさそうだ。

 それでも一つだけまだツイッターなどのネタバレ分析で読んでないような気がする点を書いてみる。

 それは、ラストシーンの後、記憶が戻ったのかどうかということだ。

 私は戻ったと思う。

 「千と千尋の神隠し」が流行った頃、私も映画館に何度か足を運んだが、そもそも興味を持ったきっかけは、「千尋」が名前を奪われるシーンを宣伝で見たからだった。「千尋」は名前を奪われることによって「千」となり、それによって現実世界の記憶を失っていく。(確かそうだったと思うが、久しぶりに見直すかな…)
 
 名前を奪われることによってアイデンティティをもはぎ取られるという話は、他にもある。安部公房が芥川賞を獲得した短編集『壁』の表題作品がそれだ。
 『壁』の主人公は、ある時名前を失ってしまう。会社に行くと「自分の名前」が勝手に仕事をしており、主人公は現実世界における居場所を失ってしまう。それから異常な出来事の数々を経て、最後に主人公は「壁」そのものになってしまう。

 名前とは一体何だろうか。

 名前とは、人のアイデンティティそのものだ。

 特に現代社会においては、人の名前は信じられない勢いで一人歩きし始める。一人歩きどころか一人全力ダッシュである。ネット時代は、良い噂も悪い噂も、体感スピードをはるかに超えて一瞬のうちに世界の果てまで伝わっていく。

 もちろんそういった情報の力は、現代社会において我々が手にした物の中で最も強力なツールの一つであることは否定できない。我々は「心が体を追い越した状態」から後戻りすることは出来ない。

 一方で、我々が生身の人間であることもまた確かな事実だ。

 だから我々は心と体が分裂したような状態で生き続けなければならない。

 知ることは出来ても、手を伸ばすことが出来ない様々な出来事。他者とつながり合いたいという気持ちが強ければ強いほど、必然的に心は体から離れていく。

 「君の名は。」の主人公達は、自分の心を自分の体から極限まで引き離し、それによって不可能を可能にしてしまう。しかし、それは当然の帰結として心と体の乖離を生む。名前は奪われる。体は奪われた名前を探し求める。あくがれた魂を呼び戻そうとするように。

 しかし、心と体は離れているだけで、そのどちらとも失われた訳ではない。

 名前が取り戻されれば、その全てが戻ってくるのだ。千が千尋に戻れたように。記憶はよみがえる。

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2016年2月21日 (日)

「オデッセイ(火星の人)」-あるいはインターネットの孤独-

※ ネタバレ注意!

 今年のアカデミー賞の作品賞候補にもなっている「オデッセイ」を(ちょっと前に)観に行ってきた。
 面白かったので二回も行ってしまった。

 火星に取り残されたマット・デイモンが、超人的なポジティブぶりで、数々の困難をくぐり抜け…という内容で、こういうくそ意地キャラは私好みなのである。

 マット・デイモン演じる主人公は、物語のある時点で地球との通信手段を手に入れる。その手段は、文字のみのまるで「チャット」のようなものだった。

 「インターネットのコミュニケーションに似ているな」と。

 そもそも物語が始まって間もない頃のシーンから、「パソコン」に向かって主人公が語りかけるシーンが出てくる。「サプラ~イズ」なんてのんきなことを言っている。死に瀕する危機的状況の直後にである。

 地球との交信が可能になった後も、主人公はのんきなものである。「全世界中継されているから丁寧な言葉遣いをしてくれ」と言われると、逆に人々をあきれさせるような発言を書き込む。何度も死にかけながら、ひたすらとぼけた軽口を叩く。

 インターネットも似たようなものかなと思う。

 ツイッターやブログの様々な書き込みが、それを書き込んだ人物の「現実」そのものの反映であるケースはむしろ少ないだろう。一人ひとりが、つらい現実を隠していたり、逆にわざと悪ぶって見せたり、仮想現実ともいうべき状況を楽しんでいる。
 おそらくはそれによって、それぞれの現実を「補完」しながら我々は生きているのだろう。

 私個人のことを言えば、自分の現実が「火星に一人取り残されている」というような状況ではもちろんない。国語教師などといった一種のトリックスターを毎日演じているのだから、ネットの自分と現実の自分は、少なくともエネルギーの方向性としてはそれほど異なっているとは思えない。

 それでももちろん現状に100%満足しているはずもない。だから以前にも語ったように、インターネットによって自己カウンセリングをしているわけだ。はっきり自覚的に。
 現実そのものを語る必要はない。自分の心から出てくるものをそのまま語るだけで十分「補完」される。自由連想か、はたまた箱庭療法か。

 「オデッセイ」も私にとっては一種の「箱庭」だったのかもしれない。まあ「時間や現実は人の認識の結果としてでしか存在しない」なんて本を出版するぐらいだから、どこでどのように生きていても「火星人」であることは免れないだろうし。

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2016年1月25日 (月)

「ザ・ウォーク」 -そこにいることの意味-

(ネタバレ全開…注意!^^;)

 「ザ・ウォーク」を観に行ってきた。

 監督はロバート・ゼメキス。
 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を始めとして、数々のヒット作を監督したが、最近はトム・ハンクス主演の「キャストアウェイ」や、デンゼル・ワシントン主演の「フライト」等、人生そのものをテーマにしたような深い作品を世に送り出している。

 「ザ・ウォーク」は実在の人物の話である。「9.11」によって今は失われてしまったニューヨークのツインタワーの屋上に、かつてワイヤーを渡して綱渡りをした男がいた。

「落ち」を知っていたはずなのに文字通り手に汗握った。そして観終わって、不思議な暖かい気分に誘われた。しかし翌日になるまで自分のその「不思議な気分」の正体がわからなかった。

 翌日目が覚めて、一日の準備を始めた時にようやく気がついた。
 あの主人公が、あそこにいることそのものが、あの映画のテーマなのだと。

 あの場所でのあの行為は、冷静に理屈で考えれば、単なる蛮勇であろう。しかし、私自身の感覚的な部分は違っていた。まさにカタルシスそのものだった。
 圧倒的なギャップを間にして、決してつながることのない二つの塔。その間に彼はいた。決してまたぐことのできない「深淵」の上に彼はいた。

 「深淵」の意味するものは一つとは限らないのだろう。その場所は二つの思想の「間」かもしれないし、二つの国家の「間」かもしれないし、二つの文化の間かもしれないし、また二つの人格の「間」かもしれない。決してつながることのない二つのものを彼はつなぎ、その危ういバランスの上に立つ奇跡を示したのだ。人が作ったものは「想像力」によってどのようにでも作り替えることができるのだと。そしてそれがもたらす、誰にも妨げられることのない、圧倒的な自由!

 少なくとも私にはそんなふうに感じられた。

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2016年1月11日 (月)

「真田丸」

 先ず題名から強烈な印象を与えられた。

 真田(信繁)幸村は誰でも知っている伝説的英雄である。描き方はいくらでもあったはずだ。「英雄」としての華々しい面、私小説的な「実像」、「真田一族」という群像劇、いくらでもあったはずなのに、いきなり題名が「真田丸」である。

 第一回の放送で「真田丸」を船に例え、一族の船出と表現していることからも、群像劇的なアプローチがメインかとも思うが、そう簡単ではなさそうだ。

 子供の頃、日本史の漫画を読んでいて、大阪冬の陣の地図を見つけた。そして大阪城の少し南に奇妙な出っ張りがあるのが気になった。「なぜこの部分だけ、城から突出しているのか?」。子供の頃からそういう「違和感」に敏感だった私は、その「出っ張り」が気になって仕方がなかった。

 その「出っ張り」には「真田丸」という名前が付いていた。それは一体何の名称なのか、城の名前なのか、それとも人の名前なのか。

 今年の大河ドラマの題名を聞いた時、子供の頃のその「違和感」がよみがえるのを感じた。大阪城という巨大な要塞の守りから外れて、敵の攻撃のまっただ中に身をさらすような、構造物。身を捨てるからこそ、その機能を最大限に発揮することができる、非情にして合理的な思考の産物。そしてその裏に秘められた情熱。 

 テレビシリーズを観るのはほんのきっかけの違いみたいな部分が大きい。少なくとも私はこの題名には引きつけられた。「真田丸」をどう描くのか、観てみたい。

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2015年7月20日 (月)

バケモノの子 -想像力という武器-

ネタバレ全開なので注意。ただし観ていないと何のことだかさっぱり分からないとは思いますが^^;)

 観た直後は、映像美に圧倒されながらも、心の片隅では、一般うけの良さそうなプロットを単に積み重ねただけの作品のようにも感じていた。家族の関係の希薄化、ボーイミーツガール、自分の心の闇との戦い etc。一つひとつは創作物のテーマとして特に目新しいものではない。マーケティングの結果としてヒットすることをねらって作った作品のような疑いさえ生まれていた。

 たいてい私の想像は、ほんのちょっとした「違和感」からスタートする。

 最初に感じたのは、あるキャラクターがあきらかに主人公自身の分身であり、それを暗示するシーンも繰り返し描写されているのに、なぜ最後まで主人公とは別個の存在として描かれ続けていたのかという点だった。むしろそれが主人公の分身であることに気づかせることによって、逆説的に他の様々な要素とのつながりを考えさせようとしているのではないかと考えた。そしてエディプスコンプレックスに思い至る。あのキャラクターが主人公の分身である以上、あるシーンがまさにそれを意味することになるからだ。

 エディプスコンプレックス自体は特に変わった考え方ではない。大雑把に言えば、男の子が父親の存在を乗り越えることで、その後の人生を生きていくための自信を手に入れるといったものだ。その際、乗り越える対象である父親が強ければ強いほど、それを乗り越えた後に男の子は生きるための強さ-心の中の強い「剣」-を手に入れることができる。

 だが主人公はその境遇から、「剣」を手に入れる機会を得られなかった。幼い頃に全てを失った彼は、「想像の世界」に現実逃避する。それでも彼は想像の世界で想像の父親の力を借りて自分の心を自ら育て始める。

 しかし、ヒロインと出会った瞬間、唐突なまでに現実世界とのつながりが戻ってくる。それは弱い本物の父親の存在を認めることでもあった。それはまた彼が逃避し続けてきた自らの心の闇と対峙することでもあった。

 彼は、自分を取り巻く不完全な現実を補完し、自らの心の闇と対決するために、「想像の父親」を想像の力で乗り越え、想像の「剣」を心の中に創り出す。たった一人で、想像の力だけで、擬似的なエディプスコンプレックスの状況を創り出し、それを乗り越えるために。そして、ヒロインと結ばれると同時に、弱い父親をむしろ支える存在となる。

 現代は人の成長にとって必要な様々な要素が失われた時代だ。父性も、母性も、かつてほどの力はない。特に父性は、現代においては見る影もない無惨な状態だ。(母性の手のひらで飛び回る孫悟空のような虚勢は散見されるが…)
 無いものは無い。失われてしまったものをとやかく言っても仕方がない。それでも人は生きていかなければならない。他者とつながり合わなければならない。それならば、自らの成長にとって足りない要素を想像で補うしかない。それこそが現代においては、最もポジティブな現実肯定・自己肯定のあり方だろう。想像するということにリミットはないのだから。


 

 

  

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2014年2月22日 (土)

「ゼロ・グラビティ(GRAVITY)」

 これを観た時、「なんだか俺の本と同じようなことをしようとしているなあ」と思った。
 それで授業中、何かの際にこの話をしたら、私の本を読んでいて、映画も観に行っていた人物が、「私もそう思った。」と発言していたので、どうも自分の思いこみとか手前味噌だけではないような部分も本当にあるようだ。

 ストーリーも面白い。どきどきわくわくだ。しかしこれまで観てきた映画の数々と比べて、特別優れたストーリーとまでは思わない。むしろエンディングまでの道のり自体は素朴なぐらいだ。

 この映画の主人公は明らかに宇宙空間そのものだ。さらに言えば題名通り、「重力がないこと」それ自体だ。
 しかし、たったそれだけの描写のなんと刺激的なことか。まさに「異化」である。我々の頭の上数十㎞の「現実」を極めて厳密に正確に再現していることは誰でも分かる。それなのにこの非現実感。

 この映画の製作意図に興味が湧いた。この素朴なストーリーの、それでいて刺激的な映画を、大金と派手なキャストを使って作り上げようとした理由に。

 人は悲しいほどにわかり合えない。それが現実だ。これほどまでにわかり合えないのにこれほどまでの世界を築き上げていること自体が奇跡だとは思う。だが、おそらくもう一歩先に行くためには何か新しい視点が必要なんだと思う。あまりに日常的すぎて意識することもない「重力」、そして「時間」。そういったものを見つめ直すことも、一歩のきっかけぐらいになるのではないかと思っている。

 この映画の制作者は、実際そう思ってこれを企画したのではないかと本気で疑っている。

追記

 ツイッターで前につぶやいたように、一カ所、まあ演出上仕方がなかったのだろうけど、ちょっと物理的にあり得ないシーンがあった。ちょっとネタバレが過ぎるのでここでは書かないが、理屈だけ書くと、加速力と慣性力を混同しているシーン。まあ一応「科学読み物」を出版している以上、断っておかざるを得ないかなと^^;無粋ではあるけど。
 そのシーン、無理に理由を説明しようとすればできなくはないんだよね。

可能性①…対象全体が僅かに回転していて、遠心力が働いていた。
可能性②…実はじわじわ動き続けていたのだが、見た目止まってしまっているように見えただけ。

 どのシーンなのかは、ひ・み・つ、ということで。うーむ、無粋の極みだな。

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