カテゴリー「映画・テレビ」の92件の記事

2016年10月23日 (日)

君の名は。名前とともに記憶はよみがえる。(ネタバレ注意)

ネタバレ超注意^^;

 ツイッターで延々つぶやいていたように、わたしゃ「君の名は。」にはまってしまって、最初に見てから数週間は経つというのに、未だに一日の大半をこれをぼっけーっと考えながら過ごしている。わたしゃ流行っているからって闇雲にそれを追っかけ回すような人間ではない。例えば「アナ雪」はまだ観てなかったりする。

 何しろ興収150億円を超えるような映画だから、当然映画マニアから分析し尽くされているんだろうし、そもそもテーマが(一見)分かりやすく作られているので、分析だ何だってわざわざ書く必要がなさそうだ。

 それでも一つだけまだツイッターなどのネタバレ分析で読んでないような気がする点を書いてみる。

 それは、ラストシーンの後、記憶が戻ったのかどうかということだ。

 私は戻ったと思う。

 「千と千尋の神隠し」が流行った頃、私も映画館に何度か足を運んだが、そもそも興味を持ったきっかけは、「千尋」が名前を奪われるシーンを宣伝で見たからだった。「千尋」は名前を奪われることによって「千」となり、それによって現実世界の記憶を失っていく。(確かそうだったと思うが、久しぶりに見直すかな…)
 
 名前を奪われることによってアイデンティティをもはぎ取られるという話は、他にもある。安部公房が芥川賞を獲得した短編集『壁』の表題作品がそれだ。
 『壁』の主人公は、ある時名前を失ってしまう。会社に行くと「自分の名前」が勝手に仕事をしており、主人公は現実世界における居場所を失ってしまう。それから異常な出来事の数々を経て、最後に主人公は「壁」そのものになってしまう。

 名前とは一体何だろうか。

 名前とは、人のアイデンティティそのものだ。

 特に現代社会においては、人の名前は信じられない勢いで一人歩きし始める。一人歩きどころか一人全力ダッシュである。ネット時代は、良い噂も悪い噂も、体感スピードをはるかに超えて一瞬のうちに世界の果てまで伝わっていく。

 もちろんそういった情報の力は、現代社会において我々が手にした物の中で最も強力なツールの一つであることは否定できない。我々は「心が体を追い越した状態」から後戻りすることは出来ない。

 一方で、我々が生身の人間であることもまた確かな事実だ。

 だから我々は心と体が分裂したような状態で生き続けなければならない。

 知ることは出来ても、手を伸ばすことが出来ない様々な出来事。他者とつながり合いたいという気持ちが強ければ強いほど、必然的に心は体から離れていく。

 「君の名は。」の主人公達は、自分の心を自分の体から極限まで引き離し、それによって不可能を可能にしてしまう。しかし、それは当然の帰結として心と体の乖離を生む。名前は奪われる。体は奪われた名前を探し求める。あくがれた魂を呼び戻そうとするように。

 しかし、心と体は離れているだけで、そのどちらとも失われた訳ではない。

 名前が取り戻されれば、その全てが戻ってくるのだ。千が千尋に戻れたように。記憶はよみがえる。

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2016年2月21日 (日)

「オデッセイ(火星の人)」-あるいはインターネットの孤独-

※ ネタバレ注意!

 今年のアカデミー賞の作品賞候補にもなっている「オデッセイ」を(ちょっと前に)観に行ってきた。
 面白かったので二回も行ってしまった。

 火星に取り残されたマット・デイモンが、超人的なポジティブぶりで、数々の困難をくぐり抜け…という内容で、こういうくそ意地キャラは私好みなのである。

 マット・デイモン演じる主人公は、物語のある時点で地球との通信手段を手に入れる。その手段は、文字のみのまるで「チャット」のようなものだった。

 「インターネットのコミュニケーションに似ているな」と。

 そもそも物語が始まって間もない頃のシーンから、「パソコン」に向かって主人公が語りかけるシーンが出てくる。「サプラ~イズ」なんてのんきなことを言っている。死に瀕する危機的状況の直後にである。

 地球との交信が可能になった後も、主人公はのんきなものである。「全世界中継されているから丁寧な言葉遣いをしてくれ」と言われると、逆に人々をあきれさせるような発言を書き込む。何度も死にかけながら、ひたすらとぼけた軽口を叩く。

 インターネットも似たようなものかなと思う。

 ツイッターやブログの様々な書き込みが、それを書き込んだ人物の「現実」そのものの反映であるケースはむしろ少ないだろう。一人ひとりが、つらい現実を隠していたり、逆にわざと悪ぶって見せたり、仮想現実ともいうべき状況を楽しんでいる。
 おそらくはそれによって、それぞれの現実を「補完」しながら我々は生きているのだろう。

 私個人のことを言えば、自分の現実が「火星に一人取り残されている」というような状況ではもちろんない。国語教師などといった一種のトリックスターを毎日演じているのだから、ネットの自分と現実の自分は、少なくともエネルギーの方向性としてはそれほど異なっているとは思えない。

 それでももちろん現状に100%満足しているはずもない。だから以前にも語ったように、インターネットによって自己カウンセリングをしているわけだ。はっきり自覚的に。
 現実そのものを語る必要はない。自分の心から出てくるものをそのまま語るだけで十分「補完」される。自由連想か、はたまた箱庭療法か。

 「オデッセイ」も私にとっては一種の「箱庭」だったのかもしれない。まあ「時間や現実は人の認識の結果としてでしか存在しない」なんて本を出版するぐらいだから、どこでどのように生きていても「火星人」であることは免れないだろうし。

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2016年1月25日 (月)

「ザ・ウォーク」 -そこにいることの意味-

(ネタバレ全開…注意!^^;)

 「ザ・ウォーク」を観に行ってきた。

 監督はロバート・ゼメキス。
 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を始めとして、数々のヒット作を監督したが、最近はトム・ハンクス主演の「キャストアウェイ」や、デンゼル・ワシントン主演の「フライト」等、人生そのものをテーマにしたような深い作品を世に送り出している。

 「ザ・ウォーク」は実在の人物の話である。「9.11」によって今は失われてしまったニューヨークのツインタワーの屋上に、かつてワイヤーを渡して綱渡りをした男がいた。

「落ち」を知っていたはずなのに文字通り手に汗握った。そして観終わって、不思議な暖かい気分に誘われた。しかし翌日になるまで自分のその「不思議な気分」の正体がわからなかった。

 翌日目が覚めて、一日の準備を始めた時にようやく気がついた。
 あの主人公が、あそこにいることそのものが、あの映画のテーマなのだと。

 あの場所でのあの行為は、冷静に理屈で考えれば、単なる蛮勇であろう。しかし、私自身の感覚的な部分は違っていた。まさにカタルシスそのものだった。
 圧倒的なギャップを間にして、決してつながることのない二つの塔。その間に彼はいた。決してまたぐことのできない「深淵」の上に彼はいた。

 「深淵」の意味するものは一つとは限らないのだろう。その場所は二つの思想の「間」かもしれないし、二つの国家の「間」かもしれないし、二つの文化の間かもしれないし、また二つの人格の「間」かもしれない。決してつながることのない二つのものを彼はつなぎ、その危ういバランスの上に立つ奇跡を示したのだ。人が作ったものは「想像力」によってどのようにでも作り替えることができるのだと。そしてそれがもたらす、誰にも妨げられることのない、圧倒的な自由!

 少なくとも私にはそんなふうに感じられた。

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2016年1月11日 (月)

「真田丸」

 先ず題名から強烈な印象を与えられた。

 真田(信繁)幸村は誰でも知っている伝説的英雄である。描き方はいくらでもあったはずだ。「英雄」としての華々しい面、私小説的な「実像」、「真田一族」という群像劇、いくらでもあったはずなのに、いきなり題名が「真田丸」である。

 第一回の放送で「真田丸」を船に例え、一族の船出と表現していることからも、群像劇的なアプローチがメインかとも思うが、そう簡単ではなさそうだ。

 子供の頃、日本史の漫画を読んでいて、大阪冬の陣の地図を見つけた。そして大阪城の少し南に奇妙な出っ張りがあるのが気になった。「なぜこの部分だけ、城から突出しているのか?」。子供の頃からそういう「違和感」に敏感だった私は、その「出っ張り」が気になって仕方がなかった。

 その「出っ張り」には「真田丸」という名前が付いていた。それは一体何の名称なのか、城の名前なのか、それとも人の名前なのか。

 今年の大河ドラマの題名を聞いた時、子供の頃のその「違和感」がよみがえるのを感じた。大阪城という巨大な要塞の守りから外れて、敵の攻撃のまっただ中に身をさらすような、構造物。身を捨てるからこそ、その機能を最大限に発揮することができる、非情にして合理的な思考の産物。そしてその裏に秘められた情熱。 

 テレビシリーズを観るのはほんのきっかけの違いみたいな部分が大きい。少なくとも私はこの題名には引きつけられた。「真田丸」をどう描くのか、観てみたい。

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2015年7月20日 (月)

バケモノの子 -想像力という武器-

ネタバレ全開なので注意。ただし観ていないと何のことだかさっぱり分からないとは思いますが^^;)

 観た直後は、映像美に圧倒されながらも、心の片隅では、一般うけの良さそうなプロットを単に積み重ねただけの作品のようにも感じていた。家族の関係の希薄化、ボーイミーツガール、自分の心の闇との戦い etc。一つひとつは創作物のテーマとして特に目新しいものではない。マーケティングの結果としてヒットすることをねらって作った作品のような疑いさえ生まれていた。

 たいてい私の想像は、ほんのちょっとした「違和感」からスタートする。

 最初に感じたのは、あるキャラクターがあきらかに主人公自身の分身であり、それを暗示するシーンも繰り返し描写されているのに、なぜ最後まで主人公とは別個の存在として描かれ続けていたのかという点だった。むしろそれが主人公の分身であることに気づかせることによって、逆説的に他の様々な要素とのつながりを考えさせようとしているのではないかと考えた。そしてエディプスコンプレックスに思い至る。あのキャラクターが主人公の分身である以上、あるシーンがまさにそれを意味することになるからだ。

 エディプスコンプレックス自体は特に変わった考え方ではない。大雑把に言えば、男の子が父親の存在を乗り越えることで、その後の人生を生きていくための自信を手に入れるといったものだ。その際、乗り越える対象である父親が強ければ強いほど、それを乗り越えた後に男の子は生きるための強さ-心の中の強い「剣」-を手に入れることができる。

 だが主人公はその境遇から、「剣」を手に入れる機会を得られなかった。幼い頃に全てを失った彼は、「想像の世界」に現実逃避する。それでも彼は想像の世界で想像の父親の力を借りて自分の心を自ら育て始める。

 しかし、ヒロインと出会った瞬間、唐突なまでに現実世界とのつながりが戻ってくる。それは弱い本物の父親の存在を認めることでもあった。それはまた彼が逃避し続けてきた自らの心の闇と対峙することでもあった。

 彼は、自分を取り巻く不完全な現実を補完し、自らの心の闇と対決するために、「想像の父親」を想像の力で乗り越え、想像の「剣」を心の中に創り出す。たった一人で、想像の力だけで、擬似的なエディプスコンプレックスの状況を創り出し、それを乗り越えるために。そして、ヒロインと結ばれると同時に、弱い父親をむしろ支える存在となる。

 現代は人の成長にとって必要な様々な要素が失われた時代だ。父性も、母性も、かつてほどの力はない。特に父性は、現代においては見る影もない無惨な状態だ。(母性の手のひらで飛び回る孫悟空のような虚勢は散見されるが…)
 無いものは無い。失われてしまったものをとやかく言っても仕方がない。それでも人は生きていかなければならない。他者とつながり合わなければならない。それならば、自らの成長にとって足りない要素を想像で補うしかない。それこそが現代においては、最もポジティブな現実肯定・自己肯定のあり方だろう。想像するということにリミットはないのだから。


 

 

  

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2014年2月22日 (土)

「ゼロ・グラビティ(GRAVITY)」

 これを観た時、「なんだか俺の本と同じようなことをしようとしているなあ」と思った。
 それで授業中、何かの際にこの話をしたら、私の本を読んでいて、映画も観に行っていた人物が、「私もそう思った。」と発言していたので、どうも自分の思いこみとか手前味噌だけではないような部分も本当にあるようだ。

 ストーリーも面白い。どきどきわくわくだ。しかしこれまで観てきた映画の数々と比べて、特別優れたストーリーとまでは思わない。むしろエンディングまでの道のり自体は素朴なぐらいだ。

 この映画の主人公は明らかに宇宙空間そのものだ。さらに言えば題名通り、「重力がないこと」それ自体だ。
 しかし、たったそれだけの描写のなんと刺激的なことか。まさに「異化」である。我々の頭の上数十㎞の「現実」を極めて厳密に正確に再現していることは誰でも分かる。それなのにこの非現実感。

 この映画の製作意図に興味が湧いた。この素朴なストーリーの、それでいて刺激的な映画を、大金と派手なキャストを使って作り上げようとした理由に。

 人は悲しいほどにわかり合えない。それが現実だ。これほどまでにわかり合えないのにこれほどまでの世界を築き上げていること自体が奇跡だとは思う。だが、おそらくもう一歩先に行くためには何か新しい視点が必要なんだと思う。あまりに日常的すぎて意識することもない「重力」、そして「時間」。そういったものを見つめ直すことも、一歩のきっかけぐらいになるのではないかと思っている。

 この映画の制作者は、実際そう思ってこれを企画したのではないかと本気で疑っている。

追記

 ツイッターで前につぶやいたように、一カ所、まあ演出上仕方がなかったのだろうけど、ちょっと物理的にあり得ないシーンがあった。ちょっとネタバレが過ぎるのでここでは書かないが、理屈だけ書くと、加速力と慣性力を混同しているシーン。まあ一応「科学読み物」を出版している以上、断っておかざるを得ないかなと^^;無粋ではあるけど。
 そのシーン、無理に理由を説明しようとすればできなくはないんだよね。

可能性①…対象全体が僅かに回転していて、遠心力が働いていた。
可能性②…実はじわじわ動き続けていたのだが、見た目止まってしまっているように見えただけ。

 どのシーンなのかは、ひ・み・つ、ということで。うーむ、無粋の極みだな。

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2014年2月14日 (金)

「クラウド アトラス」

 「時間や現実は我々の認識の結果としてでしか存在しない。」 
 "Time and reality exist only as a result of our recognition."

 拙著『時間認識という錯覚』で私は上記のような戯言結論を書いている。

 世界は我々一人ひとりが協力し合って、互いの心の中に作り上げた巨大な物語だ。そしてそのような巨大な物語の中に、我々一人ひとりの小さな物語がひしめき合っている。
 それらの物語は、時には互いに反発し合い、時には打ち消しあい、しかしこの「世界」という大きな物語の中でさまざまなつながりを持って存在している。

 小林秀雄は『無常ということ』のなかで「過去から現在に続く飴のようにのびた時間など存在しない」と言っている。「現実」は、幅のない「今」という瞬間における、絶えることない無常の時の流れの中にある。過去から現在に至る全ての人々が、今、この瞬間の「現実」を生きている。ある瞬間、他者の「現実」と自分の「現実」とがつながりあって数百年の時を超え、平安時代のなま女房の鼓の音や、遠い未来の交響楽が聞こえたりする。

 全ての人々の小さな物語は浮かんでは消え、また浮かんでは消える。そしてそれら全ての物語が時を超え空間を超えて、大きな物語に影響を与える。罪も優しさも憎しみも愛も、全てが大きな物語の中にとけ込んで、我々の認識する「現実」を創り出す。人類最古の言葉は物語であったはずだ。我々は我々自身が創り出す物語の中に住んでいるのだから。

 その意味を積極的に見つめるべき時がいつか来るような気がする。『クラウド アトラス』や『ワンス アポン ア タイム』を鑑賞していると、もう既にその時が来ているようにも思う。

 論理?論理は物語の一部に過ぎない。数学同様、現実を測る上での良くできたツールではあるが。その限界を知った上で使うべきだろう。ひょっとしてその瑕疵をむしろ意識的に利用している?まさかね。

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2014年1月27日 (月)

「ライフ・オブ・パイ」

 映画評というより、映画を観て連想したことだ。鑑賞文と呼ぶべきか。

 映画の「ライフ・オブ・パイ」は、アカデミー賞を何部門か取っただけあってなかなかの作品だが、ちょいとストーリー的にやり過ぎている部分があって(観ればすぐ分かるが)、私にとってはそれほどお勧めというほどではなかった。

 しかし、獰猛な虎と漂流するという設定は、それだけで十分にブログ化する価値があると思ったからこれを書いている。

 つまり人生は獰猛な虎と漂流するようなものだと。目的もなく孤独に漂流するだけでは耐えられなかった心も、獰猛な虎がいたからこそそれを乗り越えることができた。

 「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉が好きだ。(前にも書いたが)。

 デンゼル・ワシントンが主演した『フライト』という作品の話を前に書いた。(もうネタバラシは時効だろうと思うので内容も書いてしまう)。主人公の民間航空のパイロットは、救いようのないほど絶望的な人生を送っていた。彼は「絶望的状況」に慣れ、「絶望」に対して感覚的に麻痺してしまっていた。それ故に、自分が操縦する航空機が整備不良でコントロール不能に陥った時、ベテランパイロットの10人に1人も回避できないような危機的状況にあって、毛ほども心を揺らされず、奇跡の操縦によって多くの乗客を生還させる。しかし物語が進むにつれ、この「奇跡」が単に序章に過ぎなかったということが明らかになっていく。

 「禍」と「福」はくるくる回って転がり続け、どちらが表に出ているとも分からない。人生の最後がどちらに落ち着くのかも分からない。ひょっとしたら、いやひょっとしなくても「禍」と「福」は一つのものの別の側面に過ぎないのだろう。獰猛な虎と漂流することで絶望的な状況でも生き続けることができるように。


追記

 つまりこれは「背水の陣」なんだよね。あの戦いが特に人々の心に記憶されたのは、戦い自体の見事さだけではないだろうな。なにかそれが、別のものの「本質」と共鳴していなければ、歴史に残ったりしないはずだ。

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2013年3月 8日 (金)

「フライト」

 「禍福はあざなえる縄のごとし」だとか「塞翁が馬」だとかいった言葉が大好きだ。幸か不幸かなんて、人の認識の結果に過ぎない。
 
 というより、「禍」に出会うと、むしろ楽しくなってしまう。別人格が出てくるかのようだ。
 「禍」は、日常をたたき壊し、そして再構築させる。
 抜き差しならない状況が、むしろ自分の心から無限のポテンシャルを引きずり出す。

 自分のなそうとすることが、何を生むのかなど関係ない。目の前にはただ、乗り越えるべき壁があるだけだ。
 天使の力を借りようが、悪魔の力を借りようが、ただ自分がすべきことをする。それだけである。


追記

 今年のアカデミー脚本賞にノミネートされていた(結局取れませんでしたが…)映画「フライト」の鑑賞文です。ネタバラシせずに感想を書くのには、こういった怪しい文章もありかなと。
 いや私自身は「悪魔の力」なんて借りたことはありませんよ^^; 当然ですが…

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2012年12月11日 (火)

「のぼうの城」

 最初は漫画で読んだ。雑誌ビッグコミックスピリッツで連載されていた時に、読むともなく読んでいたが次第に引き込まれていった。

 これの主人公の面白いのは、戦国時代の武将のくせに、とにかくダメダメで、何にも取り柄がなくて、実はそれは世を忍ぶ仮の姿で…と思って読んでいたら、やっぱりダメダメなのだ。
 取り柄があるとしたら、ただプライドだけは人一倍強くて、悪くいえば単にわがままで、映画でも家来から「ガキかてめえは」と怒鳴られるほど、やっぱりダメダメなのだ。
 ところが、あまりにダメダメなので、家来も民衆も「まああの人なら仕方ないなあ」といってついてきてくれる。
 たったそれだけで、500人対2万人という劣勢を跳ね返して、秀吉の小田原攻めの際、唯一攻め落とされなかった城として、歴史に名を残すことになる。

 漫画を読んでも、原作を読んでも、この主人公は単に虚勢を張っているだけとしか思えない。それなのに面白い。ダメ殿様の代わりに大奮戦する家来達や、男勝りのヒロイン甲斐姫も、まあ魅力的といえば魅力的なのだが、それらを全部足してもちょっと違う感じだ。

 どちらかというと洋画好きなので、映画の方はどうしようかと迷っていたけど、ちょうど宮崎駿さん原作の「風の谷のナウシカ」の巨神兵を短編映画にしたものを見て、「日本映画やるじゃない」と思っていたので、ふらっと観に行くことにした。テレビ予告編で流れていた主題歌の「ズレてる方がいい」が気に入ったというのもある。

 主人公のダメダメ武将である成田長親を演じたのは狂言師の野村萬斎さんで、どんなふうに「(でく)のぼう」を演じるのかと思っていたら、のっけから動きが狂言なのだ。陰陽師に出演していた時と比べても明らかに演じ方が違う。つまり本職そのものに近い雰囲気で演じている。少なくとも私にはそう感じられた。

 原作を先に読んでいる時は、どうしてもその時のイメージと映画とを比べてしまうのだが、どう考えても特に漫画のイメージとは離れているはずなのに、なんの違和感もない。そればかりか、「300」ばりに派手な演出が施されている脇役達の大奮戦とのバランスが取れていさえする。なんだかミュージカルのようだ。ふと、原作は最初から野村萬斎さんを意識して書かれていたのではないかとさえ思う。

 それでふと気づいたのだが、主人公成田長親は、日本人そのものとして描かれているのではないかと。
 体力もなく、たいした知力もなく、ただクソ意地とプライドだけは人一倍で、そんな霞みたいなものだけを頼りにそれなりのことをやってしまう、謎な人々。

 そういえば、湖に点在する島を橋でつなげた「忍城」は、日本列島そのもののメタファーのような気さえする。

 野村萬斎さんがあの主人公を「狂言」そのものによって表現したのは、それが「秘すれば花」たる日本の精神そのものだからではないか。他者の視線という自らの運命と絶望的な戦いを続けながら、自分の心を「コミカルな動き」という極度に抑制された演技の中に閉じこめる。
 そういった我々の心の中の「古い記憶」こそが、「のぼうの城」のクリエイター達が造形したかった主人公像そのものだったのではないかと思う。

 いや元気をもらいましたよ。私もクソ意地だけが取り柄の人間なので。

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