カテゴリー「書籍・雑誌」の70件の記事

2014年5月 5日 (月)

ニュートン別冊『絵解きパラドックス』 -無限級数の収束は「2=1」を導いてしまう!?-

 副題は「思考の迷宮-奥深き逆説の世界」。

 「パラドックス」というキーワードがあるなら「ゼノンのパラドックス」も出てくるだろうと思って手に取ったら、やっぱり出ていたのでそのままレジに持っていった。

 自分が出版している本に書いている話題であり、知り尽くしているはずの情報なのにと思うだろうが、最新の書籍でどのように扱われているか、どのような言い回しで説明されているかによって、その書籍に関わっている方の考え方を知ることができると考えるからだ。(自分の車の話題が載っている本を買う人物の「マイカー愛」みたいなものかもしれないが…)

 非常に興味深かった。「ゼノンのパラドックス」は本の後半の「無限のパラドックス」という章に登場するのだが、以下の五つの話題で構成されている。

「2=1」の”証明”?
ゼノンのパラドックス
ガリレオのパラドックス
ヒルベルトの無限ホテル
トムソンのランプ

 どのページの内容も非常に面白いのだが、最も興味深いのはそのページ構成である。最初の話題「『2=1』の”証明”?」の結論と「ゼノンのパラドックス」の結論が矛盾しているように感じられるのだ。

 最初に登場する「『2=1』の”証明”?」の内容を大雑把に説明するなら以下のような感じか。

 正三角形の二辺の長さを足せば、残りの一辺の長さの二倍になる。小学生にでもわかる理屈だ。最初の二辺を残りの一辺に向かって長さそのままで折りたたむ。長さがそのままだから折りたたんだ二辺の長さの合計はやはり残りの一辺の二倍だ。それを無限に繰り返すと最初の二辺は無限に折りたたまれてくっついて一本の線になってしまう。
21

 折りたたむという操作自体は元の線の長さを増減させないはずだから、元の二辺と残りの一辺が等しくなってしまう、つまり無限の操作によって「2=1」が成立してしまう。

 この結論に対してこの本には次のような解説がなされている。
「これは、『無限の操作をくりかえせば、折れ線が直線ACと等しくなる』という論理に誤りがある疑似パラドックスだ。」(P126)
 上記の解説は、「無限の操作を行っても一定の数値には収束していかない」と言い換えることが出来るはずだ。
 数式にするなら 1-1/2-1/4-1/8-1/16-1/32…≠0 か。

 さて、この説明そのものには誰でもなるほどなあと納得させられてしまうだろうが、その次の話題が「ゼノンのパラドックス」であり、そこでは「無限の操作が一定の数値に収束していく」という、おなじみの結論が紹介されている。
 数式にするなら 1-1/2-1/4-1/8-1/16-1/32…=0 か。

 もし「無限の操作」によって一定の数値に「収束」していかないというのであれば、アキレスは永遠に亀に追いつけないということになってしまう。

 したがって我々は、無限の操作が「2=1」という状況を創り出すことを認める代わりにアキレスを亀に追いつかせるか、無限の操作によっても永遠に「2」は「2」のままであり続けることを認める代わりにアキレスが永遠に亀に追いつかないことを納得するか、究極の選択を迫られることになる。

 もちろん最後に、「無限の操作」という考え方そのものが存在し得ないことを認めてしまうというもう一つの選択肢も残されているのだが。(それはつまり「数学の虚構性」を認めてしまうということになるのだけれど…)

追記

 私が興味深く感じるのは、明らかに異なる結論に導かれているはずの内容が、まるでどこにも矛盾が無いかのように同じ章の連続した内容として語られている点です。こういう「とぼけてみせているような」書き方は科学雑誌とかで結構見かけるような気がしますが、数学の背理法の一種のような気もします。「矛盾しているだろ、矛盾に気づけよ」と暗に訴えているのではないかと。

※「アキレスと亀」については拙著においても大きく扱っているのでこちらをご覧になっていただけるとうれしいです。まああの本の内容ですから、一般的な視点で書かれた物ではありませんけどね ^^; → 『時間認識という錯覚』

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2012年12月11日 (火)

「のぼうの城」

 最初は漫画で読んだ。雑誌ビッグコミックスピリッツで連載されていた時に、読むともなく読んでいたが次第に引き込まれていった。

 これの主人公の面白いのは、戦国時代の武将のくせに、とにかくダメダメで、何にも取り柄がなくて、実はそれは世を忍ぶ仮の姿で…と思って読んでいたら、やっぱりダメダメなのだ。
 取り柄があるとしたら、ただプライドだけは人一倍強くて、悪くいえば単にわがままで、映画でも家来から「ガキかてめえは」と怒鳴られるほど、やっぱりダメダメなのだ。
 ところが、あまりにダメダメなので、家来も民衆も「まああの人なら仕方ないなあ」といってついてきてくれる。
 たったそれだけで、500人対2万人という劣勢を跳ね返して、秀吉の小田原攻めの際、唯一攻め落とされなかった城として、歴史に名を残すことになる。

 漫画を読んでも、原作を読んでも、この主人公は単に虚勢を張っているだけとしか思えない。それなのに面白い。ダメ殿様の代わりに大奮戦する家来達や、男勝りのヒロイン甲斐姫も、まあ魅力的といえば魅力的なのだが、それらを全部足してもちょっと違う感じだ。

 どちらかというと洋画好きなので、映画の方はどうしようかと迷っていたけど、ちょうど宮崎駿さん原作の「風の谷のナウシカ」の巨神兵を短編映画にしたものを見て、「日本映画やるじゃない」と思っていたので、ふらっと観に行くことにした。テレビ予告編で流れていた主題歌の「ズレてる方がいい」が気に入ったというのもある。

 主人公のダメダメ武将である成田長親を演じたのは狂言師の野村萬斎さんで、どんなふうに「(でく)のぼう」を演じるのかと思っていたら、のっけから動きが狂言なのだ。陰陽師に出演していた時と比べても明らかに演じ方が違う。つまり本職そのものに近い雰囲気で演じている。少なくとも私にはそう感じられた。

 原作を先に読んでいる時は、どうしてもその時のイメージと映画とを比べてしまうのだが、どう考えても特に漫画のイメージとは離れているはずなのに、なんの違和感もない。そればかりか、「300」ばりに派手な演出が施されている脇役達の大奮戦とのバランスが取れていさえする。なんだかミュージカルのようだ。ふと、原作は最初から野村萬斎さんを意識して書かれていたのではないかとさえ思う。

 それでふと気づいたのだが、主人公成田長親は、日本人そのものとして描かれているのではないかと。
 体力もなく、たいした知力もなく、ただクソ意地とプライドだけは人一倍で、そんな霞みたいなものだけを頼りにそれなりのことをやってしまう、謎な人々。

 そういえば、湖に点在する島を橋でつなげた「忍城」は、日本列島そのもののメタファーのような気さえする。

 野村萬斎さんがあの主人公を「狂言」そのものによって表現したのは、それが「秘すれば花」たる日本の精神そのものだからではないか。他者の視線という自らの運命と絶望的な戦いを続けながら、自分の心を「コミカルな動き」という極度に抑制された演技の中に閉じこめる。
 そういった我々の心の中の「古い記憶」こそが、「のぼうの城」のクリエイター達が造形したかった主人公像そのものだったのではないかと思う。

 いや元気をもらいましたよ。私もクソ意地だけが取り柄の人間なので。

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2012年11月 5日 (月)

数覚とは何か?(THE NUMBER SENSE -HOW THE MIND CREATES MATHEMATICS-)

 そういう題名の本を読んだ。副題は「心が数を創り、操る仕組み」。

 大雑把に言えば、人は生まれつき数を認識する力を持っているという仮説に基づいて、それに関連する様々なエピソードを紹介した本である。

 我々は、目の前に並べられた物の数を、1から3までであれば瞬時に認識することができる。ところが3より大きな数については、認識するスピードが極端に落ちてくる。
 猿などの動物たちも、3までの数については、ある程度抽象概念としても認識できるが、それ以上になるととたんに認識の精度が落ちる。
 さらには、様々な文化によって使用されている文字としての「数字」が、3までは象形的な記号を用いているが、それ以上になると元の「数」とは全く異なる記号を用い始める。例えばⅤを基本としたその両側のⅣとⅥといった具合に。

 「1」「2」「3」は、特別な数だと筆者は言う。それらについての認識は、我々動物に先験的に与えられたものだと。

 さて、なにしろカテゴリ「時間意識戯言」の記事なのだから、ここで私が語ろうとする結論は一つである。
 すなわち、我々ヒトがものの数を認識する時、目の前に提示された物体の集団を分割しようとする操作の結果として「1つ」か「2つ」か「3つ」かを判断しているのではなく、複数の像が脳内でステレオグラム合成されて1つの像と認識可能かどうかを基準にして数を認識しているのだと。
 1つと判断する時は、目の前に並んだ像の1つが現在で、他の像が過去の残像と脳内処理されている。
 2つと判断する時は、目の前に並んだ像がどちらとも現在であり、残像ではないと脳内処理されている。
 3つ(以上)と判断する時は、目の前の像が最初から脳内でステレオグラム合成する必要がないほど多数であると処理されている。

 『数覚とは何か?』には、数が大きくなるほど我々はそれを認識するだけでなく、比較などの操作をすることにも時間がかかる点を述べている。また次のように述べて、「1」「2」「3」以外の数字の処理が、言語的になされていることを説明している。

「複雑な計算をするときには、ついつい数を声に出して言ってしまうものだ。算術を言葉にすることがいかに重要かと言うことは、アルファベットを声に出して唱えながら、同時に何かを計算してみるとわかる。やってごらんなさい。ひどく難しいことがよくわかるはずだ。なぜなら、声に出して言うと、大脳の言語生産システムがいっぱいになってしまい、暗算に必要な容量がなくなってしまうのである。」(P236)

 「1」「2」「3」だけが特別な数なのは、それが我々の現実認識のシステムそのものから来る認識だからである。

 余談ではあるが、執筆中の『時間認識という錯覚』にも書いているように、「現在」という瞬間は存在自体が矛盾をはらんでいる。「現在」には幅が全くないはずなのに、その中で「動き」が成立する。これは完全な論理矛盾であり、それを指摘した「ゼノンのパラドックス」は2500年に渡って本質的な意味では解かれていない。

 だが、「幅のない現在」は我々の脳の中には実在する。同じ刺激に反応し、およそ0.2秒間に渡って同質の活動電位を維持するクラスター状のニューロン群は、ストップモーションの「現在」の存在を可能にする。(その仮説のみが、我々に流れる時間の認識を可能にさせると、『時間認識という錯覚』で繰り返し述べてきた。)

 幅のない存在といえば、「数」はまさにそのような特徴を持っている。我々は、脳の中で自然に「数」を創り出している。それは我々の現実認識のあり方そのものである。したがって、「数」は我々の存在以前にあるものではない。我々の脳が生んだものであり、我々の認識のあり方そのものとも言うべきものである。

追記

 そういえば、「蛇の回転」の模様の一つひとつは、まさにこの記事の証明になっている。全く同じ形をした青と黄色の楕円形が、脳内で別の存在として認識される時は回転が止まり、青が現在で黄色が過去の残像として処理されている時に、それを「1つ」にステレオグラム合成しようとして回転が起きる。詳しい説明はこちら→『時間認識という錯覚

追追記

 そういえば、高校の国語の教科書でおなじみの『水の東西』という教材に、「『鹿おどし』は一定の間隔で音を立てて水の流れを遮ることで、かえって流れて止まないものの存在を人に意識させる。」といった記述があったが、あれはまさに人の認識のシステムそのものだよなあと。

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2012年10月 6日 (土)

空間把握能力と言語

 ベストセラーになっている池谷裕二さんの『脳には妙なクセがある』に、私の「鬼太郎のアンテナ」をびびっと反応させる記述があった。
 
 角度の異なる視点から捉えられた2つの立体図形をモニター上に映し出す。頭の中でそれを回転させて、同じ図形であるかどうかを判断させる「空間把握能力」のテストというものがあるらしい。音楽的な能力に秀でている人物は、そういった「空間把握能力」も優れているらしい。それについて池谷裕二さんは次のように語っている。

「不思議です。音程感覚と空間把握能力に一体どんな関係があるというのでしょう。現時点では謎としか言いようがないのですが、ロンドン大学のバタワース博士らは「もともと音階は空間として表現されるもの」と指摘しています。(中略)もしかしたら、メロディーの音程構造は立体図形と同じ脳回路で処理されているのかもしれません。」(P182)

 これを読んでいる最中、突然インスピレーションが湧いたのだが、それは次のようなことだ。猿が森林の木の間を飛び回っていたことが、猿に言語を獲得させたのではないか。空間把握能力こそが言語獲得の最初のきっかけなのではないかと。そう考える根拠を以下に示す。

 言葉を覚えることができる動物は限られる。ヒトは当然として、オウムなどの鳥類、イルカやシャチなどの鯨類である。鳥類は約一万種のうち約五千種が発声学習の能力を持つらしい。(もちろん「覚える」といっても情報伝達としての「意味」を持たない音だけの状態だが…)。
 意外なことに、種としてヒトに近いはずの猿は言葉を発することができない。この理由については様々な説があるようだが、ネット記事その他を参照する限りにおいて、私にとってどれも納得のいくものではなかった。

 言葉を操るための脳の機能が、ヒトという種に突然ぽんと湧いて出るように発生したというのは明らかに変だ。二足歩行することで自由になった手を使って、我々が様々な物を創り出す能力を手に入れたように、何かの能力を獲得するためにはその前段階としての機能があったはずだ。ヒトが猿から進化したのであれば、猿に言語能力につながる何らかの機能があったはずなのに、猿は単なる音だけでも「言葉」を発することができない。

 それで、ずいぶん前にツイッターで次のようにつぶやいた。
「ヒトが言語能力という聴覚能力を持っている以上、猿が聴覚面で退化しているとは考えられない。猿は実は『デアデビル』のように、音で空間を把握する能力を持っているのではないか。我々がその能力を失ったのは、言語能力にそのリソースを奪われたからである。」
※ 「デアデビル」とは、コウモリのように音で周囲の状況を視覚以上に認識する超能力を持ったアメコミヒーローの一人

 この「つぶやき」はつぶやいた時点では冗談のつもりだったのだが、『脳には妙なクセがある』を読んでいるうちに、すこしは脈のあることのような気がしてきた。これにはもう一つ長く消えない別の疑問があったこともある。

 聴覚イメージである言葉が視覚イメージと結びついて、現実認識の能力と情報伝達能力とをヒトに獲得させたのが疑いようのない事実だとしても、一体それらが結びつくきっかけは何だったのか。視覚が視覚、聴覚が聴覚、それぞれが脳内でニューロン群のループ反応によって脳の外の現実から切り離された自律反応を起こすというのならわかるが、明らかに異なる機能同士がつながり合うにはそれなりのきっかけがあったはずだ。そしてそれはヒトの前段階としての猿の時点で起こっていたはずだ。

 それで『脳には妙なクセがある』の引用部分から次のように考えた。
 
 猿は樹上で生活し、木から木へと飛び回っているうちに、風の音を聞き、木々のきしみや木の葉のざわめきを聴いて、それらの形状、それらの状態を把握する能力を発達させた。視線を向けることなく周囲の状況を一瞬のうちに把握し、視線を向けることなく隣の木に手を伸ばして飛び移る。それが、視覚イメージと聴覚イメージを強く脳内で結びつけ、言語獲得のきっかけを創り出した。
 猿は脳の容量の拡大によって鳥以上に視覚機能を発達させた。それによって視覚と聴覚とのバランスの取れた「空間把握能力」を獲得できたのではないか。


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2012年8月 6日 (月)

「おおかみこどもの雨と雪」

(ネタバレ注意、これから見る予定のある方は絶対に読まないように^^;)

 たぶん日本で最も有名なアニメーションの一つである「機動戦士ガンダム」を監督した富野由悠季さんが、「おおかみこどもの雨と雪」を激賞して次のようにコメントしていた。

「本作は、変身物でもなければ、恋愛物でもないし、エコやら環境問題をあげつらったメッセージ物でもない。まして癒やし系でもない。それら過去のジャンル分けなどを飛び越えた物語になっている。描写が冷静だからだろう。文芸大作と言っても良い。それほどリアルに命の連鎖を描き、子供の成長の問題を取りあげている。そこに至った意味は刮目(かつもく)すべきなのだ。」

 特に「命の連鎖」という点については私も強く感じていたのだが、そのような観点で、本作品を鑑賞後にいくつかの物語を連想していた。
 一つ目は西原理恵子さんの漫画「いけちゃんとぼく」である。

(ネタバレ注意)
 
 年老いて出会って短い恋をした「いけちゃん」は、恋人が亡くなった後に時空を超えて幼い頃の彼に会いに行く。そして彼が成長して別の恋人と出会うまで見守り続ける。
 西原さん自身がこの映画宣伝ブログで語っているように、この漫画の「いけちゃん」は西原さん自身だ。人は自分の思いを、自分が出会う様々な他者に投影する。西原さんは次のように語っている。

「今まで付き合った彼氏の、何人もの辛い話や悲しかった話なんかを聞くでしょ、ちっちゃい頃のね。それを息子がちょうど同じ大きさになってきた時に全部思い出して、それがちょうど1冊になった本だったので、その後姿のシルエットが、昔ずっと好きだった何人もの人に重なっちゃってね。あの人達にもこんな小さな頃があったんだなぁと思って。」

 命は連鎖する。人の思いは連鎖する。

 ジョン・アービング原作で、『明日に向かって撃て』の監督でもあるジョージ・ロイ・ヒルが撮った『ガープの世界』も、同様のテーマで作られた作品だろう。短命であるという運命を背負う家族が、その悲劇をありのまま受け止めながら、命をつなげていく。あの衝撃的なラストシーンで、ヘリコプターで運ばれながらパイロットだった父親とのつながりを感じ、にこやかに笑いながら、家族に「忘れないで」とつぶやく主人公の姿は、「おおかみこども」の主人公である花さんの姿にも重なる。

 本作品の監督細田守さんの『時をかける少女』について私は以前次のように書いた

「原作が持っていた、現代社会の延長としての未来への不安といった高度成長期ならではのテーマをばっさりと切り捨て、全てが横につながりあった「今」この瞬間の、「生」のみに焦点を絞り込んだ脚本の意図には非常に共感できる。」

 『おおかみこどもの雨と雪』においても、「横のつながり」が描かれている。
 主人公の花さんは、おおかみを「しっかり生きられるように」自然に帰すという目的を果たした。だがそれによって父親と花さん二人の絆は消えてしまったかのようだ。しかし、その絆はべつの二人によって引き継がれる。「雨」が結びつけた別の命のつながりによって。

 時間を超え、空間を超えた命の連鎖の物語だ。世界につながりのないものなど何もないのだと。


追記

 この作品はメタファーだらけで、そういう意味でジブリの「千と千尋の神隠し」とか「ハウルの動く城」とかと似ていると思うのですが、そういった視点での作品分析をやってしまうと、私自身の「傾向」とでも言うべきものが明らかになってしまいかねないような気がするので、それは止めておきたいと思います。(なんのこったい)
 まあ、一言だけ語ると、「おおかみおとこ」は、全ての人が擬似的な個性を手に入れた結果として、かえって脆弱化した真の個性を象徴しているんでしょうね…。

→ そういう考え方についてはこららが詳しいです。私自身が15年前に書いた物ですが…

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2011年8月 4日 (木)

日経サイエンス「人工知能の意識を測る」

 最後の方にこんなことが書いてありました。

「…その機械は自身の情報統合力に基づき、意識的に景色を認識するだろう。高レベルの統合を実現するには、哺乳類の脳の構造の原理を利用したものにならざるを得ないのではないかと私たちはみている。」(P53)

 本ブログのカテゴリ「時間意識戯言」のパラダイムにおいても、我々が認識している現実は我々の脳が創り出したものということで落ち着いているので、我々とコミュニケーション可能な「人工知能」を創造するためには、我々の脳の構造を参考にせざるを得ないという点では全くの同意見なのですが…

 問題はこの記事が、「哺乳類の脳の構造の原理」が既に明らかになっているかのような書き方になっていることです。

 いや素朴な疑問なんですが、既に当たりがついているなんてことがあるんですか?^^;それはつまりイコール「意識の謎」が解けてしまったということだと思うのですが…。

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2011年7月13日 (水)

『さえずり言語起源論』

 最近本屋の平積みとかネットとかで「ジュウシマツ関係」をよく目にする。人間以外では鳥だけが「言葉」を覚えることが出来るという点に着目した研究のようだ。つまり「『意識』とはなにか」を最終目的とした取り組みらしい。

 このカテゴリ「時間意識戯言」で、今年の頭から特に「言語」関係の戯言を書き綴ってきたので、本屋で平積みになっていた関連本の一つにすぐに目に留まった。その本が面白かったので、またすぐに関連書籍をネットで取り寄せていた。その一つがこれだった。
 例によって部屋のどこかで熟成させた後、つい最近掃除中に発見して読み始めた。

 非常に興味深く読ませていただいた。P79にこんな記述がある。

「いろいろな程度の複雑さの歌を歌う個体を用意し、どの個体の歌がフラッシュ光によって中断されやすいか調べてみたのである。結果、より複雑な歌を歌う個体の方が中断することが少なく、確かに複雑な歌を歌うためには認知的なコストが必要であることがわかった。」

 「認知的なコストが必要」とは、「(複雑なほど)歌に気を取られやすい」と言い換えてもいいのだろうか。

 ここで(いつものように)戯言を書かせていただく。

 フラッシュ光によって歌が中断されないのは、歌が複雑だからそれに気を取られやすくなるのではなく、歌が複雑だからこそ中断されにくくなるのではないか。つまり、本戯言カテゴリのパラダイムを使うなら、複雑な歌を歌う時、脳の中では様々な音素に反応するニューロン群がループ反応を起こしていわば待機状態にある。鳥が歌う際、それらの音素を半ばランダムに選択して、「作曲」しながら歌っていく。

 もしあらかじめプログラムされたひとつながりの曲であれば、「フラッシュ光」などによって中断された場合、また最初から歌い直さなければならなくなる。それがジャズのアドリブのように、与えられた音素の範囲内で作曲しながら演奏するのであれば、たとえフラッシュを浴びた瞬間に再生しようとしていた音素の一つがそのショックで消えてしまっても、そのまま他の音素を拾い上げながら演奏を継続することが出来るはずだ。

 つまり、複雑な歌を歌う鳥が、フラッシュによって中断されないのは、歌そのものの演奏の仕組みが異なっているからである。そしてそのことが、脳の中で特定の音素に反応するニューロン群がループ反応を起こし、擬似的な「時間の幅」の中で同時的に乱立していることの一つの証明になる(ような気がする)。

 ワンパターンですみません^^;

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2011年5月22日 (日)

「ブタのみどころ」

 シッタカブッタシリーズの最新作だが、今回のは作者自身も言っているように「科学っぽいこと」がたくさん書いてあって、面白かった。なんだか作者の小泉吉宏さんと私は読書傾向が似ているのではないかというような気さえする。10年前は10年前で。今は今で。

 4コマ漫画は、「空所」がたっぷりあって、読みながらあれこれ想像(妄想)を膨らませることが出来るところがいい。実は一つ前の日記は、これを読みながら連想したことを書いた。

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2011年3月29日 (火)

「言語で変わる思考」

 日経サイエンスの最新号の記事にそんな題名のものがあった。
 「我々が話している言語はその人の世界認識に影響を及ぼしている」と副題に書いてある。
正直率直な感想を述べさせていただけるのなら、「何をいまさら」である。

 分野を見ると「認知心理学」とあるので、なるほどなあと納得したような気にはなる。
 前にもどこかに書いたが、認知科学者のマービン・ミンスキーの『心の社会』を読んだときも、彼がなんだか言葉を必要としない現実認識のあり方を証明しようと躍起になっているような気がしてならなかった。
 最近読んだ、認知心理学系の『思考する言語』という本でも、言語が現実認識に影響を与えているというサピア・ウォーフ仮説を、筆者がこれまた躍起になって否定しようとしていたので、途中で読むのをやめてしまった。

 永遠不変、唯一無二の「言語」。そんなものがもしあったとしたら、世界はもっと平和だったろう。みんなでそれをお勉強すれば、互いの心を正確に理解し合え、誤解のない平和な世の中がやってくる。しかし、そう簡単にはいかないことは、誰だってわかっている。世界は、多様な言語、多様な現実、多様な「心」がひしめき合って存在しており、時には互いが互いを打ち消そうとするかのようだ。

 しかし、たとえ「いまさら」であっても、認知心理学の領域で、サピア・ウォーフ仮説を肯定するような発言が出始めたことには、大きな意味があると考える。ホーキングの『宇宙と人間を語る』に、自説を覆すような新説が出てきたとき、学者は自説を捨てずに変更を加えて生きながらえさせようとすると書いてあった(P76)。だから逆に考えて、この記事のような発言は実は大転換なのではないかというような気もする。

 私の興味の中心には、今も昔も変わらず「言語」がある。最近「洞穴日記」を乗っ取りつつある「時間意識戯言」も、最終的には「言語」関係につながっていく予定である。(まあ最後まで「戯言」の域は出ないだろうけど)。だから、「言語で変わる思考」のような記事は大歓迎だ。


追記

 そろそろどなたか本当に本格的な翻訳ソフトを作ってくれないのだろうか。本気で金をかければ、たとえサピア・ウォーフ仮説的な本質的な違いが言語間にあったとしても、それすら乗り越えるような精度のものが出来るはずだ。もちろん多言語を習得することにはそれ自体に多様な価値があるが、我々が現状としてインターネットを補助電子頭脳的に使いこなしているのと同様の効果を、そのような翻訳ソフトに見出せると思うのだが…


追追記

 いえね、唯一無二の「言語」なんてものがなくても、「時間意識」は唯一無二の共通要素(原的な直観)になりうるのではないかと思うのですよ…。えっ、ジョン・レノン?もちろんファンですよ(って前に同じこと書いたっけか)。ゆーめいせいあいまあどりーまーですか?^^;
 

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2011年1月20日 (木)

「永遠のゼロ」

 以前の同僚に久しぶりにあったら、この本を激賞していたので、早速買ってきた。文庫が平積みになっていたのを覚えていたのだ。(この男は、国語の授業で生徒に「コンセント」を勧めたというなかなかの人物である。)

 これは泣けた。泣きながら、俺はまだこんなストレートな物語に感動出来るんだなと、奇妙な安心感に似たものを感じていた。しばらく経って、そんなにストレートな物語でもないのかもしれないとようやく気づいたが。

 で、ラストシーンの話を書きかけたのだが、どこをどう書いても致命的なネタバラシになる。言ってみれば、良くできた推理小説の犯人をばらすようなものなので、なんとも書きようがない。
 ぼかしながらぼかしながらちょっとだけ書くと、エピローグのあの瞬間の彼の心が、まさに空所として機能して、そこまで読んできた内容の全てが、凝縮される。おそらくは読み進める過程で、自分が生きてきた人生の残像みたいなものも知らず知らずのうちに物語に編み込まれ、あの瞬間の「彼の心」に他人とは思えないような親近感を与えているのだろう。あれほど「非現実」的な物語なのに…。

 最後に登場する二人のじいさんもいい。元やくざの景浦さんと主人公達の祖父。そう、世界は時として理不尽だ。しかし、たった1人でも信じられる者がいるのなら、そいつのために生きればいい。そう思わせてくれる。

 

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