カテゴリー「音楽」の12件の記事

2012年1月30日 (月)

「ぼくらの」

 「ぼくらの」という漫画を読んだ。アニメの方は観てないが、少なくとも原作はなかなか良くできている。

 が、設定もストーリーも少々過激で、ブログ化するかどうかずいぶん悩んだ。(そんなことで悩むなとつっこむべからず。まあ、実名も立場も公開しているブログなので、それなりに気をつかって書いているのだ…)

 私は基本的にお涙頂戴物が嫌いだ。特に登場人物が死ぬ話が嫌いだ。そもそも「死」は、ストーリー、プロットに関わりなく悲しいものに決まっていて、登場人物に感情移入させておきながら、その人物を物語から退場させれば、読者は誰だって喪失感を感じるものだ。つまり、たとえそのストーリーで泣かされたとしても、なんだかその涙は空々しいものと感じる。

 「ぼくらの」という漫画は、ググってみればわかるが基本設定はそういう漫画なので、登場人物が次々退場していく。それなら何でブログ化しているのかというと、その中のいくつかのエピソードが本当に良くできていると思うからだ。単なる喪失の物語に終わっていない。

(ここからネタバレ注意)

 お勧めは単行本の6~7巻のエピソードだ。そのエピソードの登場人物の女の子は、ある事情でピアノを弾くことになる。その演奏の出来いかんによって大勢の人々が命を失うかも知れないという差し迫った状況だ。
 その女の子は、見も知らぬ大勢の人々のために自分の命を賭してピアノを弾こうとする。しかし、演奏する指は鍵盤を走らず、次第に彼女は追い詰められていく。
 しかし、絶望的な状況にありながら、むしろそれ故に彼女はそのすべてを自分の運命として受け入れる。悲しい出来事も、楽しい出来事も、たわいもない日常の風景も、友達も、思い出も、自分の身の回りの全てとのつながりを感じ、その中で生きていることの充実感を得る。ピアノを演奏しながら、自らの弾くピアノの音を聞くことによって現実を明視し、その中で生きている自分の姿に、「多幸」を感じるのだ。

 ここからはおまけ話だが、似たような感覚をどこかで味わったことがあると思い、しばらく考えているうちに本年度のアカデミー作品賞候補にもなっている「ツリー・オブ・ライフ」に思い当たった。
 「ぼくらの」で演奏されているラヴェルのソナチネをiTunesで落として聴いてみたところが、その雰囲気が「ツリー・オブ・ライフ」で印象的に使われているスメタナのモルダウの、主旋律が始まる直前の部分に似ている。木の間からちらちらとこぼれる陽の光のような、川面のさざめきに細かな光が乱れ踊るような…。

 「誰かのため」という生き方は現代においても力を失っていない。しかしこの現代社会においては、その言葉はそれぞれの心の奥の方に沈み込んでしまっていて、本当の力が発現されにくくなっている。
 自分の身の回りをただありのまま見つめること、そんなたわいもないものこそが、眠っていた様々な価値を心の奥から呼び起こすことにつながる、そう思わせてくれる。


追記

 で、また妄想だが、「ツリー・オブ・ライフ」の監督のテレンス・マリックは、「ぼくらの」を読んでいるのではないかと。足かけ5年以上の月日をかけた制作期間の途中で、大幅な脚本変更があったらしい。「ぼくらの」のそのエピソードが書かれた2007年頃はその時期にタイミングが合っているような気がする。ジャパニーズマンガにはそのくらいの影響力がありそうな気がするのだが…^^;

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2011年1月13日 (木)

音楽と言葉(その②)

 (いつもの戯言です。連載小説みたいなものなので、初めてこのブログにたどり着いた方は、「時間意識ダイジェスト」を先にご覧になって下さい。でないと何を言っているのか多分……(^_^;))

 0.3秒の「過去把持」によって、いろいろな考え方が派生的に生まれてくる。

 音楽のコードという考え方も面白い。若い時、へたくそなギターをよくかき鳴らしていた。左手で弦を押さえることで、CだとかFだとかのコードをつくる。それを右手でかき鳴らすことで、調和の取れた響きを創り出す。
 つまり、一定の音の組み合わせが、耳に心地よいハーモニーを生むわけだ。

 さて、コードを構成する音の全てを同時にかき鳴らすとハーモニーが生まれるのはわかるとして、そのコードを構成する音の一つひとつを線状に組み合わせても、美しい旋律が生まれるのはなぜだろう。若い頃これを不思議に思っていた。一つひとつの音はつま弾くと同時に消えていく。響きはある程度脳味噌の中に残っているとはいえ、そのコードに属す一小節なりを弾き終わるまで持続できるとは思えない。それなのに、一定のコードの中で、そのコードに縛られた旋律は、美しく響く。まるで同時にかき鳴らしたかのように。アルページオなんかが一番わかりやすい例だろう。

 「過去把持」という考え方を使うとそれが簡単に説明できる。つまりメロディラインは「過去」に消え去るわけではない。脳の中に擬似的に創られた0.3秒の「時間の幅」の中に、一つひとつの音はその音に反応するニューロン群のハウリングによって、過去把持的にとどまり続ける。そして、色のついたセロファンを一枚ずつ置いていくように、一つひとつの音が脳味噌の中で重なり合って新しい「色」を創り出す。そのコードの小節なりを弾き終わる間に、ストロークによって同時にかき鳴らしたときと変わらない、和音が生まれる。

 音楽の「旋律」と同じように、線状性を特徴とする言葉にも、同様の効果があるのではないか。我々が文を読んだり声に出したりするとき、文を構成する言葉の一つひとつは「過去」に消え去っていくわけではない。おそらくは音楽と同様の装置によって、言葉の響きは心の中にとどまり続け、乱立しながら一つのコードを創り出し、文の意味というハーモニーを我々に伝えている。

追記

 というより、なぜ和音なんてものが存在するのだろう。そんなことにまで興味が湧いてきた…

追追記

 「不思議な少年」という漫画のエピソードの一つに、人類が最も人類らしい営みを生んだ瞬間、というものがあって、それは言葉だろうと思っていたら、漫画の落ちは「歌」だった。ちょっと意外だったのだが、ひょっとしたら自己意識の最初のきっかけは歌だったのかも知れないと、最近は思い直し始めている。

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2010年5月 5日 (水)

「とがっているものほどやすらぐ」

 腰痛のおかげて、連休中は読書するかテレビ観るかネットを眺めるかぐらいしかしてなかったので、このブログも自然にそういう話題が多くなっている。

 NHKオンデマンドで、一青窈さんの「こころの遺伝子」を観た。彼女の言う「とがっているものほどやすらぐ」というのはそのまま「文学」の考え方だ。イーザーの言う文学の装置、「空所」とか「否定」とかは、まさに「とがっている」ということに他ならない。

 わたしゃ「ハナミズキ」は十分「とがっている」作品だと思うのだが、番組の文脈ではあの作品は、「とがってない」作品の代表格とされていたらしい。そして、「同様の作品」を周囲から期待されたことが、彼女を苦しめたと。

 一青さん自身は、「ハナミズキ」を「とがっている」作品と認識しているのではないかな。それを人から理解されなかったことで苦しんでいたのではないかという気がする。

 人に「やすらぎを与える」なんて簡単にできる話ではなかろう。人は人とふれあうことで「勝手にやすらぐ」ものだと思う。「ハナミズキ」の歌詞をよく読んでみればわかるが、あそこまで解釈を拒絶し、鑑賞者を突き放した歌詞はそうそうあるまい。われわれ一人一人が勝手に「ハナミズキ」を鑑賞し、勝手に様々なことを思い、勝手に安らいでいる。

 歌詞には人にやすらぎを与える力はない。前にも書いたが、そこには作った人間の心の奥から削り出された「真実」のみがある、と思うのだがどうだろうか?

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2010年2月24日 (水)

ハナミズキ

 何度聴いても泣けるので、ウィキペディアとかであれこれ調べているうちになんだか納得いった気がした。

 9.11がらみのエピソードに触発されて書いた詩だと、作った本人が言っているそうなのだが、少なくともこの歌の力はそこから来るのではないと思う。
 この歌の歌詞は最初、9.11を歌っていることがはっきりわかるような状態だったらしい。そこから削りに削られて最終的な状態になった。書いた本人もなぜその歌詞に最終的に落ち着いたのかわからないほどに削られて。
 おそらくは削られる際に、本人さえ気づかなかった、9.11を歌わずにはいられなかった本当の理由が、歌詞の奥から削り出されてきたのだろう。
 そしてそれが本人さえも気づかなかった理由であるが故に、おそらくは無意識レベルの個人的な思いに基づくものでありながら、さらにそれを突き抜けて普遍性を持つにまで至った。本人がそれを明確に意識していれば、むしろこんな歌詞はかけなかったはずだ。単にどこかの誰かの話を書いた歌詞、で終わってしまったはずだ。
 だから「ハナミズキ」を聴く時、聴く人がそれぞれの文脈でそれを受け取り、それぞれの思いから心を揺さぶられる。なぜ揺さぶられているのかわからないまま…。
 ただ、こんなことは実は誰でも気づいていて、単にこんなところで書こうとしなかっただけなんだろうな…。

追記

 村上春樹さんは、そういった本来無意識の作用に頼るしかないことを、おそらくは意識的に、しかも計算してやっている(ような気がする)。

追追記

 ただ、一青窈さんは、宮沢賢治に影響を受けているという話なので、まさかひょっとして意識的にあの歌詞を書いたのだとしたら、ただ者ではないですね。

追追追記

 これの記事を書くために、あれこれ調べているうちに初めて知ったのですが、ハナミズキって映画になるそうですね。そういうタイミングだから書いたわけではないので、念のため^^;

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2009年7月 5日 (日)

ヤナーチェクのシンフォニエッタ

 仕事をするのにBGMにしようと、加入している有料音楽サイトで適当な曲を探していたら、これが聴けるようになっていたので今聴いている。
 ウィキペディアで調べてみたら、ヤナーチェクはこの曲を「勝利を目指して戦う現代の自由人の、精神的な美や歓喜、勇気や決意といったもの」というテーマで書いたのだそうだ。

 「1Q84」は、象徴する意味が比較的読者にわかりやすいように意識的に書かれているような気がする。その代わり、登場する様々な事物間の関連が複雑で、「空所」だらけで、本当に最後の一ページまで展開が読めなかった。それなのに読後には、物語全体の展開に、他の展開が考えられないぐらいの必然性を感じた。

 どこかのブログに、BOOK2でやめておくべきだ、そうでなければ後の展開は必ず陳腐になる、そんな展開を見たくない、と書いてあったが、私はそうは思わない。これほどわかりやすいテーマを、これほどの意外性と必然性をもって記述する力のある作家が、これ以降の展開を陳腐にすることなど考えられない。たとえ落ちが陳腐であっても、作品そのものは陳腐になどなるはずがない。それを言うならBOOK2の段階で落ちは既に陳腐だ。(もちろん一般的な意味で言えばだが…)

 結論はただ一つ。村上春樹さん、何年かかってもいいから、BOOK3とBOOK4を書いて下さい。待ってます~。

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2009年3月25日 (水)

洋楽が好きだ(った)

 中学から高校ぐらいにかけて聴いていた音楽を一生聴き続ける、というような記述をどこかで見た。私の場合もまさにその通りで、1980~1990ぐらいにかけてカセットテープがすり切れるぐらいに聴いていた洋楽を、今でも延々聴き続けている。(カセットテープ自体が懐かしいが)。インターネットの有料音楽サイトの会員でもあるのでほとんどノンストップである。

 そもそもの出会いは姉経由であった。私が小学校高学年だった頃、姉は何のつもりか借りてきたビートルズを私に丸暗記させた。「へいじゅーどめきばでかさんそんえめきべるだ」といった具合である。後で英語が最大の弱点教科になった。

 とにかくそれがきっかけなのかなんなのか、中学に入った頃から洋楽ばかり追い続けた。自分で作ったトランジスタラジオに、親の引き出しからくすねてきたイヤホンをちょん切ってハンダ付けして、深夜まで延々洋楽番組を探して聞き続けた。ほとんど中毒症状である。当時は夜が長かった…。

 今でもその頃の洋楽を聴くと、頭の中でドーパミンがどっぱどっぱ出てくるのがはっきりわかる。家でやっつけなければならない仕事がある時などに、ヘッドホンで聴きながら自分を鼓舞する。というわけで、今この瞬間も聴いているのだが、それはつまり仕事がやばいということなので、この辺で戯言を終わってしまうのである。まあ、いつもの現実逃避ですな。

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2009年1月24日 (土)

ダニー・ボーイ

 熊男はこの曲が好きなのである。衛星放送で特集をやっていたので思わず見入ってしまった。

 「ノー・カントリー」でアカデミー賞を取ったコーエン兄弟の90年代の映画に、「ミラーズ・クロッシング」という作品がある。ハメットの「血の収穫」みたいなプロットの映画で、かなり辛口の大人向けの映画なので若い人たちには全くお勧めでも何でもないのだが、ワンシーンだけ強烈な印象を残している箇所があり、そのシーンのBGMとして流れていたのが、この「ダニー・ボーイ」なのである。実は映画鑑賞としては掟破りだが、そのシーンだけをたぶん100回以上観ている。

 (ネタバレ開始)それはギャングのボスであるレオ(脇役)が、自宅で寝ているところを敵対するギャングの刺客に襲われるシーンだ。絶体絶命の窮地に追い込まれながら、表情一つ変えずに自分の運命を地獄の縁から引きずりもどす。そこに描かれているのは圧倒的な「心」の力である。このシーンの後、レオは自分を裏切った主人公に対して、これまた圧倒的な腕力を見せつけるのだが、これらのシーンのコントラストもすばらしい。

 コーエン兄弟の映画では、そういった「心」の「現実」に対する圧倒的な影響力が傍系的テーマとしてよく描かれている。「ファーゴ」でアカデミー主演女優賞を獲得した、身ごもった女刑事の役も、同じテーマでキャラクター造形されたものだろう。しかし、「ノー・カントリー」では、同様の圧倒的な「意志の力」を今度は絶対悪として描いている。

 コーエン兄弟の映画は渋くて暗くて、先に書いたようにとても若者には勧められない。たぶん、アメリカで彼らの映画が認められている背景には、アメリカの文科省の裏工作が…。(まだ言ってますが^^; ところでアメリカで文科省に相当するのは何という機関なのかね…。えっ教育者のくせにそんなことも知らないのかだって?)

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2008年4月 6日 (日)

「春の歌・桜の歌」

 春と桜の歌ばかり集めたNHKの特集番組である。

 3月は、7日に卒業式が終わったら、ちょいと個人的なイベントの後すぐ高校入試が11日、そして合否結果が14日、その4日後に突然転勤を言い渡され、そこからここまでは後片付けやらなんやらでばたばたと走ってきた感じだ。あまりにあわただしかったので離任式の日にも涙さえ出なかったが…。

 涙は、映画とか、小説とか、歌とか、何か枠を与えられた方が出やすいようだ。歌を聞きながら泣いた泣いた。
 確かフロイトが、夢についてこんなふうに説明していた。日頃心の奥に押し込められていた思いが眠りに紛れて、意識の表面に水の泡が浮かび上がって来るように現れ出たものだと。
 いわばそれは心の奥に悲しみがたまりすぎないようにするための安全弁のようなものだ。映画とか、歌とかも、夢と同じような機能を持っているのだろう。

 まあ、涙が出そうな時は、出してしまうしかなかろう。

追記  そういえば妙に熊男と共通点が多い出演者がいたな…。

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2007年11月28日 (水)

「煙が目にしみる」

 以前このブログでサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の話を書いたが、無性に読み直したくなって、村上春樹版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のペーパーバック版を買ってきてしまった。ハードカバー版が家のどこかにあるにも関わらずである。

 久しぶりに読んでみて、たぶん読むたびにそう感じていたのだろうが、ラストシーンの「煙が目にしみる」に驚かされた。なんとたくさんの映画に、似たイメージが登場することかと。

 それは「煙が目にしみる」をBGMに、主人公とヒロインとがダンスを踊るというシーンだ。たぶん最初の映画はジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』だろう。それをお友達のスピルバーグが映画のテーマそのものにして『オールウェイズ』という作品を一本撮ってしまった。その他似たイメージのシーンを持つ映画は数知れない(と思うのだが…)。『ボディガード』とかにも、いかにもというシーンがある。何だか和歌の本歌取りみたいでさえある。

 『ライ麦畑』のラストシーンにはダンスはない。しかし、雨にずぶ濡れになりながら、回るメリーゴーランドを見つめ続ける主人公の心は、静かにダンスを踊っているのだと思う。たくさんの映画から逆にそう思わされているのかも知れないが。

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2007年2月26日 (月)

Over The Rainbow

 虹の向こうで青い鳥を探すような歳でもないのだが、「Over The Rainbow」は大好きな曲の一つだ。向こうの国の方々もこの曲が大好きらしくて、いろんな映画のラストシーンだとかに使われていたりする。最近衛星放送で、そもそもの始まりの『オズの魔法使い』をやっていたので、(仕事で忙しいはずなのに)久しぶりに見たところが、やっぱりおもしろかった。しかし、自分があの曲を好きでいるきっかけとしてはちょっと弱いような気もした。

 「Over The Rainbow」は長い間、あちらの人たちに愛され続けてきて、その想いみたいなものが、曲の向こうに透けて見えるのではないかとも思う。人でも物でも、長い間大事にされ続けたものは、時にそれが本来持っている魅力を超える。

 人に大事にされた猫が、飼い主が死んだ後に猫またになるというのは………ちょっと違うか。
 

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