カテゴリー「修士論文「『自己認識』を促す国語教育の研究」戯言解説」の97件の記事

2014年6月21日 (土)

心の中の湖

 このブログをはじめた頃(2006.8)には、この表現を何度か使っていたような気がする。
 私は意識的に自分の心を機能させようとする時に、心の中に「湖」が広がっている様子をイメージする。漫画の「シッタカブッタ」の中に、そういうのがあったのかも知れない。

 最近第三シリーズがNHKで放映された「シャーロック」で、無限の記憶を保管する場所の脳内イメージとして「精神の宮殿」という表現が使われていた。知識を記憶させる際、心の中に本物の図書館のようなイメージを創り出し、その中の戸棚の一つにしまいこむようにすると、より効果的に記憶すべきデータを脳に刻み込み、取り出すことも可能になるというものだ。私の「心の中の湖」というのもそれに似ているかも知れない。

 難解な文章などを読む際、私は文章の中の言葉の一つひとつを自分の「心の湖」に投げ込むイメージを持つ。もちろん比喩的な意味でではあるのだが、ある程度は実際にイメージしていると思う。
 そして、その文章を読み終わるまで、可能な限り多くの言葉を心の湖にぷかぷか浮かばせて、言葉の一部分が湖の表面にちらちら頭をのぞかせているような状態を保つ。一つの言葉に集中しすぎると、他の言葉が湖の底に沈んでしまうから、肩の力を抜いて出来るだけ全ての言葉に均等に自分の注意が行き届くようにする。

 その状態でしばらくそっとしておくと、言葉はそれぞれ揺れたり流れたりして、くっついたりぶつかり合って離れていったりと勝手に動き始める。そして私自身は、それらの言葉の動きを出来るだけ邪魔しないようにして、言葉それぞれがつながり合うのを待つ。言葉が多くつながればつながるほど、読んでいる文章のイメージがくっきりと鮮明になっていく。その文章の構造が立体的にさえ見えてくる。

 前にこのブログで、「言葉は樹上で生活する動物の風を読む空間認識力から生まれたのではないか」と書いて、拙著『時間認識という錯覚』でもそれをネタにした。「心の湖」の表面で、たくさんの言葉がぷかぷか浮かんでいる様子は、まさに空間的である。

 思考を効果的に働かせるための手法として、キーワードカードをランダムに動かして偶然のつながりを生み出すKJ法や、多数の参加者のランダムな意見の偶然のつながりを生み出すブレインストーミングがあるが、「心の湖」はそれを一人でやるようなものと言えるかも知れない。脳内KJ法、脳内ブレインストーミングとでも言うべきか。

 大体人は、単純なものを好むものだ。自分の行動だけでなく、他者とのつながりさえ単純化し様式化する。そうすると、見かけ上スマートになる。見かけ上コミュニケーション能力が上がったような気分になる。しかし、そのような手法によって獲得された「能力」が、複雑な人間関係や、不測の事態に対応する機能を持てるだろうか。「流れて止まないもの」を見つめ、複雑な物事を複雑なまま理解し受け止める能力こそ、現代みたいな世の中には必要だろう。

 論理構造も構文も投げ捨てて、ただ言葉を「心の湖」に投げ込んでぶかぶか浮かばせる。そうすると自分自身がなんだか情報の海の中を優雅に泳いでいるような気分にもなる。それは現代人の思考「様式」として悪くないと思うし、なにより結構快感なのでそういう意味でもお勧めである。

追記

 テニスで、特に強烈なサーブを打ってくる相手と試合する時にも、これとちょっと似た心理状態になる。複数のサーブの軌道とスピードと、それに対処する自分の何パターンもの身体イメージが、重なり合って同時存在している感じ。それらは同じ場所に重なり合っているわけではなくて、立体的に私の体の周囲に配置されている。そして私自身は肩の力を抜いて、ラケットをぶらぶらさせて完全なニュートラルな状態で、本物のボールが飛んでくるまでそれらのイメージを保つ。

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2013年11月21日 (木)

小林秀雄 『無常ということ』の授業

小林秀雄の『無常ということ』を教材に、いつもの「キーワード探し」に加えて、キーワードを使った「疑問点探し」という授業を企画し、記録をとってみました。音声データもとってみましたので、暇な時にテープ起こしもしてみる予定です。(当分無理っぽいですが…)

「キーワード探し → 疑問点探し」(その1)
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「キーワード探し → 疑問点探し」(その2)
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「班で話し合い後の最終形」
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《 鑑賞文 》

「私たちは誰でもこの瞬間の「今」を生きている。どんな時代の人々もどんな場所の人々も「今」を生きているという点では変わらない。1年次に学習した『水の東西』で日本文化に生きる人々が「流れて止まないものを見つめる心」を持っていることを学んだ。「今」という瞬間は常に流れ去って止まることはない。この「流れてやまないもの」とは「無常」ということに他ならない。我々が「今」という瞬間を生きていることだけが、全ての「人間」に共通の真実である。だが、普通に生活しているだけでは、我々はそのことを忘れてしまっている。過ぎ去ったものを記憶し、あれこれ解釈することで、安心してしまっている。この瞬間の「今」という全ての人間に共通の真実を見つめ、その時代その時代を生きた人々の生の姿を感じ、「思い出す」ことで、それぞれの現実を生きている人間という存在の本当の「美しさ」を再認識することが可能になる。それが「無常」の本当の意味である。」

追記

 「鑑賞文」は私が書いたものですが、「班での話し合いの最終形」の段階で、生徒達はほぼ「鑑賞文」と同レベルの理解に達していました。

 

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2013年4月21日 (日)

「自分を知る」という新しい価値

 世の中はそう簡単には変わらないもんだ。これだけの人々が集まって、これだけの時間を経て、こういう社会ができあがっているんだから、それにはそれなりの必然性があるんだろう。

 だから「現代社会はこういう弱点を持っている」とか「こういう社会が理想だ」とかいう論議はそれなりに必要だとは思うけど、それそのものに意味があるかというと正直疑問だ。世の中はなるようにしかならないし、これからもなるようになっていくに違いない。

 我々は大きな価値が失われた時代に生きている。どんな美しげなスローガンも、その裏に個人だとか集団だとか国家だとかの利害が絡んでいることを誰しも知っている。誰しもそれを知っているということ自体が前提となった社会に生きている。

 だが確実に言えるのは、人は自分のことも他人のこともたいして知ってはいないということだ。社会心理学者のエーリッヒ・フロムは「人類は初めて自分が何者であるかについて考えざるを得ない時代にたどり着いた」と言っている。「大きな価値」が幻となって消え去り、自分一人になって初めて我々は「自分とは何か」について考えるようになった。これは喜ばしいことであるに違いない。

 そう。我々は(もちろん私自身も)自分のことなんてなーんにもわかっちゃいないのだ。なにしろ「意識」が何なのかさえわかっていない時代なんだから。高速道路や巨大建造物、IT機器に象徴される情報技術の発達が、まるで人が万能であるかのような錯覚を我々に与えているが、多分我々の文化なんて原始時代とほとんど大して変わっちゃいない。

 そんな原始人が、「大きな価値」を失って、つまり一人ひとり何をやっていいかわからないような状態にある。それが現代という時代の最大の特徴だ。
 いっそのこと「自分を知る」ということそのものを生きる目標にしてしまえばいい。学校でも「さー、みなさん。今日は自分についてどんなことがわかりましたか?」と、呼びかける。選挙の公約なんかも、「あなたが自分のことをよりよく理解できるように我々はこういう仕組みを提供しようと考えています」と人々に呼びかける。お母さんは子供に「今日は自分について何がわかった?」と呼びかける。科学者達は、「自分とは何か」について研究する。(あれ?これ、既にやっているはずですよね^^;)

 自分のことをどれくらい知っているかを、新しい「学力」として、入試の得点そのものにする。子供達は毎日せっせと自分を知るために勉強をし、思考力を高めるのだ。

 いや実は20年近く前から主張しているんですけどね。悪くないと思うけどなあ…(結構本気)


追記

 しかし、人が一人ひとりみんな自分のことを完全に知り尽くしてしまったら、それはみんな仙人になるということだから、それはそれでどうだかなあという感じだな。まあ、「自分」なんてそうそう簡単には知り尽くせるようなもんじゃないか…

追記

 「自分を知る」と言っても、「自分探し」とはちょっと違うので…。まあ説明すると長くなるので、暇な方は拙著『自己認識を促す国語教育の研究』でも読んでやって下さい。極端に言えば、今までと同じことを視点を変えてやるだけですね。ロジャースあたりも「自分が世界の中心であると認識すること」がカウンセリングの第一歩だとどこかで言っていたし…。まあそういうことです。

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2013年3月10日 (日)

「記号論」の不幸

 「記号論」が不幸だったのは、そういう名前に翻訳されてしまったことだと思う。

 「記号」と聞くと誰でも、「地図とか数学とかの記号でも研究している分野なのかな」と思うはずだ。
 「記号論」は、実物のかわりに簡略化した絵とか文字-つまり単なる「記号」-を研究するような分野ではない。
 「現実とは何か」「人の心とは何か」というテーマを根っこに含む学問であり、「関係認識論」とか、せめて「表象論」と呼ぶべきものなのである。(「表象論」なんて名付けたら、「現象学」とキャラがかぶってしまうのだろうが…。実際かぶっている部分も多いので、それはそれでかまわないとは思うが。)

 初めて「記号論」という単語を目にしたのは、多分私自身が高校生だった頃の模試の問題だったと思う。
「なんとまあ単なる記号を研究しているなんて、世の中にはいろんな人がいるもんだなあ。」と、ちょっとあきれたような奇妙な感想を持ったのを覚えている。つまり高校生の私は、そこに書かれている内容を正確には理解できていなかったわけだ。

 もう15年以上前に、修士論文を書いていた時、とにかく徹底的に「言語」に関わりが深い分野にあたってみようと思い立ち、片っ端からそれらしい書籍を漁っていた。言葉と人の心とは深いつながりがあるという確信だけはあったので、その方向で読み進めているうちに、再び「記号論」に出会った。「記号論」の本当の意味を理解した時、まさに目から鱗が落ちるような思いがしたのを覚えている。コンタクトが風で吹き飛ばされたら、その方が視界が広がったというような感じだった。
 このブログで前にも書いた覚えがあるが、それ以来「記号論」と「現象学」は、私の考え方の根っこの部分にパラダイムとして居座り続けている。
 私が「記号論」をどのようなものとして受け止めたのかについては、拙宅「熊男の住処」に全文アップしてある修論のうち、以下の部分に詳しいので興味のある方はご覧になっていただきたい。

「自己認識を促す国語教育の研究」第二章第一節(二 「言語」による「意味・価値」の創造 ソシュールの記号論)

 それ以来、いろんな場面で、「記号論」という言葉を耳にしてきた。ところが不思議なことにその多くが、奇妙な微笑みと、悪く言えばさげすみにちかいものを音の響きに伴っていた。その響きは、私自身が「記号論」という言葉を初めて聞いた時のあの感じを思い出させるものだった。

 第一印象は大きい。そもそもソシュールの言説を初めて日本に紹介した『一般言語学講義』という本の訳が完全ではなく、丸山圭三郎さんの『ソシュールの思想』や、池上嘉彦さんの『記号論への招待』が、正確な理解を我々にもたらすまで、「記号論」の内容は長きにわたる誤解の下にあった。「言葉は『記号』に過ぎず、現実の代用に過ぎない」というあの考え方だ。むしろ「記号論」はそれを半ば逆転させ、言葉がいかに我々自身が認識する「現実」に強力な影響力を持っているかということを明らかにしているのだが…。

 言葉の力は大きい。染み付いてしまったイメージは簡単にはそぎおとせない。「記号」という名で翻訳されてしまった、この20世紀を代表するとさえ言える思想は、日本において、これから数百年、「記号論」という言葉自体が忘れ去られるまで、誤解され続けるのだろう。

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2013年1月 1日 (火)

やるべきことがあるのはいいことだ!

 あけましておめでとうございます ^^
 というわけで、また今年も始まってしまいました。まあ区切りがあることはよいことです。

 去年の元旦のブログで書いた「計」は、1つだけ達成することができました。まあ、そんなもんだろうなあと最初から思ってはいたので、ある程度予定通りなんですけどね^^;

 今年は大言壮語するのは止めて、実現可能な「計」をいくつか書いてみましょう。(去年同様、仕事関係は真面目にやって当たり前の大前提なので入れていません。)

一、 テニスのポイントを何でもいいから1つゲットする。(県ランキング?)
二、『時間認識という錯覚 -2500年の謎を解く-』を出版する。
三、『時間認識という錯覚 -2500年の謎を解く-』を全文英訳してネットにアップする。
四、修論「自己認識を促す国語教育の研究」をベースにした本を一冊書いて自費出版する。

 いや、十分大言壮語という気もしますが…。

 「一」は私の力では実際微妙なところなんですが、大分のランキングポイントはあれこれ種類があるようなので、そのどれでもいいから1つということです。まあしかし、例えば年齢制限を上げたところで勝てるというわけではないんですけどね。むしろ一般の方が相手次第で奇跡が起きる。

 「二」はせっかく書いたので、本当にやるつもりです。出版不況の時代に出版社さんも冒険なんかしたくないでしょうから、別に自費出版でもかまいません。まあ、あちらやこちらやに連絡してみるつもりです。最初は膨大な量の引用について許可をもらう意味でもあの出版社さんかなあと。あれこれインスピレーションをもらってますし。

 「三」は既にスタートしていますが、ぼちぼちやっていきます。盆栽みたいなもんですよ。アップしちゃあ文章内のキーワードを検索してみるじじい趣味も悪くないかと………。(Googleさん、Yahoo!さんありがとう^^;)。日本語版と英訳版と照らし合わせることができるようになっていますので、「それならこういう訳の方が適切だよ」というご意見等を頂きたく存じます。

 「四」はまあ、せっかく修論を書いてから15年間、あれこれ実践を積み重ねてきましたので、本業の自己研修という意味でも書いてしまうつもりです。「作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。」(『山月記』中島敦)という部分も当然ありますが。これは最初から自費出版以外考えていません。

 というわけで、いつもこれをご覧になって下さっている皆さん、今年もよろしくお願いします!

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2010年12月26日 (日)

「時間の幅」と「言葉」

 このシリーズで私は、同じ刺激に反応するニューロン群の発火深度の差が、ステレオグラム的に融合して、「時間の流れ」と擬似的な「時間の幅」を我々に認識させていると繰り返し述べてきた。

 そもそもこのシリーズは、このブログの別のカテゴリである「自己認識戯言」からサイドストーリー的にうまれた。「自己認識戯言」は、「言語」分野をその主たる対象としている。私の本職は国語の教員だから、そっちの方が当然このブログの中心(のはず)なのだ。

 それで「時間意識」戯言も、最終的にはそっちとつながっていく予定なのだが、それらをつなぐ最後のリングを探しているところである。(まあ、戯言は戯言のままですませておいた方が本当は良いのだろうけど…ほとんど開き直りですな。だはははは。)

 この「時間意識戯言」で私は、同じ刺激に反応するニューロン群が、互いに互いを刺激しあって反応をループさせ、それが擬似的な「時間の幅」を創り出していると書いた。ニューロン単体の反応サイクルが0.3秒だから、当然それによって創り出される擬似的な「時間の幅」も0.3秒となる。

 0.3秒という時間でふと思いついたのが(だいぶ前からだが…)、それは言葉一単語分の音の長さに相当するのではないかと。どんな言語でも、脳の中でその音を再生するのに数秒以上かかるような単語はないはずだ。例外的に「スーパーカリフラジリスティクエクスピアリドーシャス」(メリーポピンズ)なんてのもあるが、この手の長すぎる単語は実際にはいくつかのパーツに分解できる。(例…「スーパー」「カリフラジ」「リスティック」「エクスピアリ」「ドーシャス」)。それぞれのパーツは0.3秒を超えてはいない。

 言葉が単語単位で0.3秒以内だということになると、一体文法とはどのような位置づけになるのかとか、脳の中で言葉が相互にどのような連関を持っているのかとか、いろいろと派生的に面白いテーマが生まれてくるのだが、その方面は、やや(というよりかなり)知識不足である。「時間」にばかり偏っていた読書傾向を、そちら方面にシフトしようかと考えているところだ。

 生徒によくこんな話をする。

「『楽しみ』というものは自分の周囲にいくらでも転がっている。しかしそれを『楽しみ』と気づくための知識や知性が必要だ。例えば、赤ん坊の側にプレステがあっても、赤ん坊にとっては何の意味もない箱に過ぎない。それをシャボン玉をふくらませるようにゆっくりと自分の世界を広げていく。すると今までただの「物」に過ぎなかった様々な物事が、突然魅力あるものとして目の前に次々と浮かび上がってくるのだ。」

 自分自身がまさにそんな感じだ。今まで自分と関わりがないと思っていた様々なものにこれからもトライしてみるつもりだ。


追記

 言葉は脳内では、線状的につながりあっているのではなく、響きあっているのかも知れない。交響楽のように。

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2010年12月23日 (木)

『月刊国語教育』1月号

 『月刊国語教育』という教育系の雑誌に、教材「羅生門」を使った2年前の実践を、「主体性を育てるためには」というテーマに沿って分析し直して、寄稿しました。1月号に掲載されますので、興味のある方はそちらでご覧になって下さい。4ページもらっています。
 あの実践は、観点の異なる分析の口頭発表とはいえ、2度も使い回しました…。刊行物で文字化されたわけですから、これで終わりにしようと思っています(^_^;)
 

追記

 「月刊国語教育」のホームページを今見て、3月で休刊することを知りました。以前にも小さな記事を載せていただいたこともありました。30年も続いていた雑誌だったんですね。残念です。

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2010年12月18日 (土)

現象学

 私がこの用語を使うときは、たいていフッサールの現象学のことを指している。これは単にこれしか知らないだけなのだが。

 知っているといっても、著作の全てを読んだというわけではない。竹田青嗣さんの「現象学入門」の助けを借りながら、あれこれ著作をかじってみただけだ。

 「現象学の理念」。これは結構隅から隅まで読んだ。
 「イデーン」。斜め読みした。引用に適当そうな記述を見つけるためだけの読みだった。ごめんなさい。
 「ヨーロッパ諸科学の危機」。これは結構真面目に読んだが、隅から隅までというほどではない。
 「内的時間意識の現象学」。最近読んで、「時間意識戯言」に似ているのでびっくり。

 実際読んでみればわかるが、かなり難解である。「現象学入門」の助け無しではとても歯が立たなかっただろう。わかる部分を拾い読みしながら、わからない部分を想像で補って進んでいくような読みだった。大体哲学関係の本は、日本人が書いた物でさえ難解なのだから、(「善の研究」を青空文庫で読んでみればわかります)、翻訳された本の難解さに至っては暗号を読み解くようなものだ。

 それなのに初めて現象学に触れてから約15年。時間が経つほどに私の心への影響度が増してきているのは、多分フッサールの文章そのものの、難解さの奥にある魅力にあるのだと思う。
 
 読んでみればわかるが、彼の文章には「机」とか「赤(色)」とががよく出てくる。多分彼は、書いている最中に、自分の目の前にあるものを見つめ、それを思索のモチーフとしている。「赤」なんかは多分、机の上にある赤インクか何かを見つめていたのだろう。
 そういったことに象徴されるように、彼の文章は常に自分の「心」が対象であり、どんなに難解な言葉遣いで難解な内容を書いているように見えても、「心」から離れていないために、じっくり読めば理解できるのだ。(そんな気がするだけなのかも知れないが…)。何しろ「心」は誰の中にもあるのだから。

 誰しも納得せざるを得ない、究極の真実。フッサールはそんなものを求めていたらしい。そんなものが本当にあるといいなあ…^^;

 「熊男の住処」内の、現象学関連の記述へのリンクです → ここをクリック

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2010年10月31日 (日)

コードとコンテクスト

 某学会に行ってきました。(なぜ「某」なのかというと、正式名称を書くと、どうもグーグルさんがすぐ検索上位に上げてくれるようなので、それはそれで嬉しいのですが、ちょいとてれくさいというのもありまして…^^;)

 で、学会の話なのですが、コードやコンテクスト等の記号論系の用語を、発表やらシンポジウムやらで何度か耳にしました。私の書く屁理屈においても重要な位置をしめる概念です。嬉しくなってにやにやしてました。

 で、私が次に書こうと思っている文章に関連するような話題もシンポジウムなどで語られていて、なんだか先読みされているのかなあと、これまた自意識過剰な連想をしてしまうぐらいに、収穫の多い2日間でした。

 疲れているので、変な文章ですが、まあ日記だからということで。いつも変な文章か。

 なんにしても、それぞれの領域のトップにいるような人たちの話を聞くのは本当に刺激になります。「血液が逆流する」などというのは、ちょいと適切な場面が違う表現のような気がしますが、まさにそんな感じでした。

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2010年8月 4日 (水)

「記号論」

 高校の教科書(例えば東京書籍)で、学習すべき項目の一つとして設定されているほどメジャーな分野でありながら、これほど誤解を招きやすい学問はあるまい。

 おそらく最も深刻な誤解は次の一文から来ている。

「シニフィアンとシニフィエの関係は恣意的である。」

 大体、世の中カタカナ言葉が多すぎる。もちろん言葉の翻訳は必ずしも正確に元の言葉の内容を伝えるとは限らない。しかし、だからといって擬似的に音声だけを「翻訳」しても、当然問題の解決にはならない。そもそも、定義づけもしないカタカナ言葉が、いかにもわかる人だけわかればいいといった雰囲気で連発されているような文章は、高校生でなくても読む気にならないはずだ。というわけで、それぞれの用語を定義づけてみる。

・「シニフィアン」 …
大雑把に言えば言葉のこと。かつて「能記」と表現されたこともある。
・「シニフィエ」 …
大雑把に言えば言葉によって表現される内容のこと。かつて「所記」と表現されたこともある。
・「恣意的」 …
辞書的には「わがまま気まま」。ここでは、言葉と内容との関係が変更可能であることを意味する。

 ところで記号論の創始者であるソシュールは次のようにも言っている。

「シニフィアンとシニフィエの関係は紙の表と裏のようなものである。」

 おそらく前の一文からは、言葉と内容はいつでも取り替えられるという印象を受け、後の一文からは言葉と内容とは切り離せないという印象を受けるはずだ。したがって、「この二文は矛盾している」と、何の予備知識もない人が考えるのは当然である。
 
 ところが、この二文は、言葉と内容の関係について、一つの事実を別の角度から説明しているのであって、全く矛盾などしていない。

 一つの文化社会で使用される言葉は、相互につながりあって巨大な網の目のように我々の心の中に広がり、心の中に入ってくる「現実」をフィルターのように区分けする。新しい言葉が生まれるなどして、言葉相互の関係が変化すれば、心の中の「巨大な網の目」も変化して、言葉それぞれが受け持つ内容の守備範囲も変化する。新しい言葉は現実社会で不断に生まれ続けているから、言葉と内容との関係はまさに「恣意的」に変化しつつある。しかし新しい言葉の誕生によって、既に存在する別の言葉の内容の守備範囲が狭くなるかも知れない。つまり、紙を切ると、表だけでなく、裏も一緒に切れてしまうように、言葉相互の関係と、内容とは、必然的なつながりを保ち続ける。言葉が変化すれば、それに寄り添うように内容も変化するのである。

 以上の解釈は主に丸山圭三郎さんの『ソシュールの思想』を参考にしたものだが、高校の教科書で普通に学習する内容でもある。その他少なくとも5冊は参考にしている。だからこれは現代における「記号論」の基本的な考え方であると確信を持って言える(のだが………)。

(参考)以下は以前私が書いた文章のうち、今回の記事に関連のある内容へのリンクです。

「『自己認識』を促す国語教育の研究」の「記号論」解説箇所
→(おまけ)「戯言日記の戯言解説」 ※(戯言その8)ぐらいからご覧になって下さい。
 

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